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安全に泣けるセカイ系ファンタジー - 幻灯劇場『虎と娘』(Dブロック)| 京都学生演劇祭2016レポート #KSTF2016

幻灯劇場『虎と娘』(Dブロック)| 京都学生演劇祭2016レポート

あらすじ

 動物と人との間の子である人気作家の女性が、行政の監視下に置かれた施設に幽閉されている。同じくハーフでありながら、人間が支配する社会で働く役人の男性がいる。役人は差別的プロパガンダの意図をもって、作家に対しその執筆中の作品内に「動物は人間ではない」との一文を記述するよう求める。作家は、自身でありながら自身ではない体の一部が小説を書いているため、これをできないと伝える。役人と作家は、互いの境遇を話すうちに、心が通じ合う。役人は、自ら差別される動物とのハーフでありながら、差別はこの世界に必要であると唱える。人や動物は、自らの存在意義のために、他者グループに対する差別を必要としており、そのシステムの中でのしあがり、自分は「差別の王になる」と、役人は宣言する。しかしそのもくろみは失敗する。別れの時が来る。作家は「あなたはヒトラーになれない」と言う。そして作家は強制収容所に送られ、役人は自害を命じられる。

解説

支配的人種差別と嫌悪的人種差別

 社会科学者ジョエル・コヴェルは、支配的人種差別と嫌悪的人種差別とを弁別する。ナチ・イデオロギー時代のヨーロッパ社会を例にとろう。支配的人種差別とは、階層化された社会秩序の中で、劣った地位に属する人種に対する差別であり、当時のヨーロッパで隷属的地位に配置されていた黒人や中国人等に対する差別である。彼ら黒人・中国人等は人類の一部を構成しており、人類の階層の中で、アーリア人に比して劣った位置にあるに過ぎない。他方で嫌悪的人種差別とは何か。ユダヤ人は、階層化された社会秩序の中に位置を持たず、常に境界を侵犯するものであり、秩序の同一性を攪乱する者である。階層化された<人類>の秩序の中に配置された支配的人種差別を被るもの達(黒人・中国人)と違い、嫌悪的人種差別を被る者達(ユダヤ人)は、<人類>の調和的な全体の中に明確な位置を持たない。その外部に属する者達である。したがって、支配的人種差別を被る者達が、本来の隷属的位置にいるよう強制されるのに対して、嫌悪的人種差別を受ける者達は、皆殺しにされなければならない。

ここでは、支配的人種差別と嫌悪的人種差別という、 Joel Kovel がたてた区別を用いることができよう。ナチのイデオロギーにしたがえば、全人類が階層的・調和的な<全体>を形成している(その頂点にいるアーリア人の「運命」は支配することであり、黒人や中国人その他は仕えなければならない)。全人類といっても、ユダヤ人は別である。ユダヤ人には居るべき場所がない。彼らの「同一性」自体からして贋物である。ユダヤ人の同一性は境界を侵犯し、不安と敵対性を持ち込み、社会の組織を不安定にするところにある。そのようなものとしてのユダヤ人は他の人種と共に陰謀をたくらみ、その人種が自分本来の場所に我慢していられないようにする。ユダヤ人は、世界支配をもくろむ隠れた<支配者>として機能する。ユダヤ人はアーリア人自身の反転イメージであり、一種の否定的・倒錯的な分身である。だから、他の人種は自分たち本来の場所に留まるよう強制されるだけだが、ユダヤ人は皆殺しにされなければならない。
スラヴォイ・ジジェクイデオロギーの崇高な対象』 p.246

 上記の視点から言えば、本作『虎と娘』における差別とは、「支配的人種差別」であり、上述の引用でユダヤ人差別として例示される「嫌悪的人種差別」とは異なる。第一に、動物のハーフが「皆殺しにされなければならない」理由が作品中で明示されていないからである(身分制社会において殺すことはむしろ奴隷労働力の損失になる)(「動物には鋭い爪があり人を傷つけるから危険」等の言説は、「黒人は筋肉が発達し過ぎていて暴力的だから危険」等の差別的言説と同様、差別構造の側から遡及的に<発見=捏造>された「差別される原因」にほかならない。動物と人とのハーフ達は、「差別される側に原因がある」というレイシスト特有の差別的発想を内面化しているに過ぎない)。第二に、舞台上で役人が熱弁を振るうところによると、ひとは自分より下位の者を見出すことによって自尊心を保つと述べるからである。ここで、権力への意志と差別行為とが結託している。「権力を握ること、何らかの社会的・経済的利得を得ること」と、「他者を差別すること、他者を隷属的位置に配置して仕えさせること」とが一体化している類の差別である。したがって本作『虎と娘』が描く差別とは、ユダヤ人差別で問題となるところの皆殺し、ホロコーストを帰結するような嫌悪的人種差別であるよりも、社会秩序の配置にまつわる支配的人種差別、つまりは身分制社会における差別であると考えられる。役人が舞台上で叫ぶ「俺は差別の王になる!」とは、下克上をたくらむ下層階級者の宣言である。このような欲望を作品のテーマとする場合、本来であれば、強制収容所のようなホロコーストを帰結することはないはずである。なぜなら、黒人・中国人あるいは農民は、上層民に奉仕させる限りにおいて有用性があるのであり、積極的に殺す必要はないからである(むしろ殺すことは社会的損失となる)。したがって、作家が強制収容所で死ぬべき理由、役人が自害すべき理由が、曖昧である。秩序に対する罪としての懲役刑・絞首刑ならまだしも、強制収容所などといった、人種殲滅という最終目的のなかで与えられる死という意味配置が、成立し得ない。もし仮に役人が名誉人間としての役を解かれ、黒人がそう配置されるであるように、農場・工場等の奴隷労働の現場に送られるのならば、納得がいく。作家の方もそうである。にも関わらず本作では、あたかも被差別者の「死」のみが目的とされるかのような場所へ、作家は送られ、役人はその資源としての肉体を自害によって消滅させられる。本作はこの点において、設定上の混乱がある。そしてこの設定上の混乱を、「ヒト・トラ」という語と「ヒトラー」という語との同一性によって、つなぎとめ、意味的破綻を防いでいる。「ヒトラー」という歴史的固有名との関連によってのみ、本作の全体性は担保されているというわけである。したがって「ヒトラー」とは、クッションのとじ目、この物語全体の個々の要素が滑り落ちるのを止め、それら各部の意味を固定し、統一された全体性として実現する、結節点である*1。したがって、この結節点があらわれる瞬間、すなわち、ヒトラーの演説が音声として流れヒトラーという単語が舞台上に出来した瞬間、観客は、ストーリーが突如切断されたような、無理な接続が外挿されたような、唐突な印象を受ける。

古典的レイシズムと現代的レイシズム

次に、古典的レイシズム/現代的レイシズム の弁別を導入し、本作『虎と娘』が、現代社会で問題となっているところの現代的レイシズムではなく、古くからある古典的レイシズムのみを題材にしているという点を説明する。

 シアーズやマコナヒーらの研究によれば、黒人へのレイシズムは20世紀半ばに変容を遂げたという。かつて主流であった黒人への偏見は、彼らの分類では「古典的レイシズム」と呼ばれる。これは、黒人は道徳的および能力的に劣っているという信念に基づく偏見である。しかしこのような公然とした偏見は、20世紀半ば行こう、社会的に容認されないものとなっていった。
(中略)
 代わって出現したのが、現代的レイシズムである。その偏見の内容は(中略)現在では以下のような信念の集合に基づくものであることが受け入れられている。
(1)黒人に対する偏見や差別はすでに存在しておらず、
(2)したがって黒人と白人との間の格差は黒人が努力しないことによるものであり、
(3)それにもかかわらず黒人は差別に抗議し過剰な要求を行い
(4)本来得るべきもの以上の特権を得ている
という、四つの信念である。
—高史明『レイシズムを解剖する: 在日コリアンへの偏見とインターネット』 p.14

 上述のような古典的レイシズムは、ドイツ・ナチスの人種差別政策による結末が広く知れ渡ったことや、1960年前後の米国・公民権運動を通して人種間の平等が訴えられたことにより、その後、弱まっていった。そして、人種間の差別が強く禁止され、人種間の平等が社会の前提として定礎されるようになった。その中であらわれる現代的レイシズムとは、人種間の平等が前提とされた上で出来する、別種の差別であり、しばしばマジョリティの被害妄想をもってこれが主張される。例えば、行動する保守を自称する市民団体「在特会在日特権を許さない市民の会)」は、その名称から明らかなように、在日外国人が日本人に比して特権を持っていると主張する団体である。
 さて、本作『虎と娘』の背景となる社会においては、人種間の差別が正統なものとして前提とされており、いまだ人種間の平等が定礎されておらず、したがって古典的レイシズムを題材としたものである。そのため、本作は、現代的レイシズムに対しての批評性をもたない。
 仮に在特会メンバーが本作を観劇したとすれば、ヒト・トラの「俺は差別の王になる」発言のシーンにどのような思いを抱くだろうか。おそらくこう言うだろう。

  • 「われわれは弱き一般市民であり、権力のために差別をするという発想から無縁である。権力を欲し、日本人を差別しようとしているのが、在日なのだ。」
  • 「われわれ日本人の側こそ、ヒト・トラが体現するような在日に、差別されているのである。」
  • 「ヒト・トラがそうであるように、被差別者だった者こそ、差別されていたという言い訳を免罪符に、最も差別をしたがる。」

 このような在特会的な発想、すなわち現代的レイシズムに対して、本作は何の批評性も持たない。むしろ、逆の効果を持ちうる。先に引いたスラヴォイ・ジジェクによれば、本作『虎と娘』によって表現されるヒト・トラとは、在特会が在日に対してそう抱くのと同様、ユダヤ人に対するステレオタイプを体現するものである。すなわち、「ユダヤ人は他の人種と共に陰謀をたくらみ、その人種が自分本来の場所に我慢していられないようにする。ユダヤ人は、世界支配をもくろむ隠れた<支配者>として機能する」(ジジェク)。したがって、本作『虎と娘』は、在特会的な思想またはユダヤ陰謀論を助長しかねない役割を、被差別者ヒト・トラにゆだねていると言える。

在特会的な主張(現代的レイシズムの一例)
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 もちろん、本作『虎と娘』が古典的レイシズムを題材とし、現代的レイシズムに対して批評性をもたないということが、『虎と娘』自体の作品の価値を下げるものではない(そのような批判は、昆虫図鑑に対して「この本には鳥類がのっていないからけしからん」と言うようなことで、的外れである)。ただここでは、本作が古典的レイシズムを題材とした物語であり、そのため現代的レイシズムに対しては批評性をもたず、解決策を提示せず、論争的ではない、という点を指摘しておく。

作家の思想の宿る場所

 精神分析学者ジームクント・フロイトは、『夢の解釈』において、夢の潜在思想は夢の顕在内容にではなく、夢の形態にあらわれると言った。
 説明しよう。フロイト曰く、夢にあらわれる物語の構成要素である個々の素材は、夢を見る者の無意識の思想とは何ら関係ない。無意識の思想は、その素材ではなく、その夢の形態にあらわれるのである。すなわち、夢に出て来た諸々の素材—杖や、海や、化け物や、知人は、無意識の思想とは何ら関係ない—それらは単に、日中に見たり想像したりしたものが単に出てきたに過ぎない—無意識の思想は、それら個々の要素が、いかに接続され、全体の中に配置されるかという、それら素材の加工のされ方のなかに、その姿をあらわすのである。
 作家の思想のあらわれ方は、夢において無意識の思想の出現の仕方と、同型的である。すなわち、男女の恋、過去のトラウマ、地下の欲望、ダンス、登場人物の喜怒哀楽といった、作品の個々の素材・部分対象が、いかにして互いに接続され、全体の中に配置されているかという点に、作家の思想が宿る。本作では過去のトラウマや地下の欲望は、差別と結託した権力の意志として配置され、恋愛過程は、当該差別を乗り越えるものとして配置されている。本作における形態は、すべて、(身分制社会における古典的)差別と権力への批判の周りに配置されており、これが本作における作家の思想である。

独創性はいかにして可能か

 さて、次に、作品の独創性について検討しよう。批評家の東浩紀は、コンテンツの独創性—オリジナリティ—がいかにして可能かを次のように説明する。独創性は真空地帯には発生しない(したがって何らかの過去の知の継承がある)のであるが、しかしながら同ジャンル内における反復には独創性が宿らず、独創性とは、ジャンル間の越境の中にこそ宿る。東浩紀が初期に批評対象としたアニメ業界で例示すれば、かつての作品に独創性があったのは、クリエイター(たとえば押井守等)が実写映画が好きで実写映画を大量に見ており、映画ではできないことをアニメで実現しようとした点にあった。他方で現代アニメを作る多くのクリエイターは、アニメが好きで、アニメばかり見て自分の好きなアニメをそのまま反復しており、独創性がない。同ジャンル内でのフェティッシュな欲望対象のテンプレートを反復しているだけであって、そこにジャンルの越境性は存在しない。
 ここまでは東の考えである。ここからは、ジャンル間の越境が独創性に対して影響を及ぼす、2つのレベルについて説明をする。独創性が出来する2つのレベルとは、ジャンル間の内容の差異のレベルと、ジャンル間の変換作業による加工のレベルである。説明しよう。
 第一に、異なるジャンルの作品には、単一のジャンル内には見出せない別のタイプの素材や思想がそれぞれ伴ってあり、これを輸入という形で自ジャンル内に導入することにより、当該ジャンル内にそれまでなかった、新たな思想が、独創性として宿ることになる。アニメが題材とする思想・素材は、それまで作られてきたアニメに最適な形態をもっており、これは、実写映画が題材とする思想・素材とは異なっている(いた)、と言える。例えば、かつてのアニメはファンタジーや子ども向けの空想を題材としていたが、実写映画は政治や現実の物質的基盤を題材とすることが多かったとしよう。その場合、実写映画の素材をアニメに輸入することによって、当該作品には、それまでなかった独創性が付与され、ジャンル内に新しい準ジャンルが誕生する。
 第二に、ジャンル間の変換・翻訳による独創性。作家が作品を創造するに際して、作家は、無から有を産み出すことはできず、先行作品の形態の模倣から始めなければならない(そして模倣によってのみ、創作が可能である)。そのため、同ジャンルの形態を反復することから逃れられない。これは創作の必然である。しかし他ジャンルから自ジャンルへの変換・翻訳を行う場合、外部のジャンルから自己の属するジャンルへの変換・翻訳作業を行う必要性がでてくる。これは本質的に、先行作品の反復によっては乗り越えられない作業である。そのため、変換・翻訳にともなって、必然的に、独自の形態が創造される。それは偶然の産物かもしれないし、現実社会を生きる作家の思想が無意識に影響を及ぼしたものかもしれない。ここに創造性が宿る。例えば、京都学生演劇祭2016年の作品のひとつ、劇団未踏座『懐かしき家』に登場する、26歳の女性の話し言葉を見てみよう。彼女は言葉の語尾に「〜なんだわ」「〜かしらね」「きっと〜よ」をつける。平成の現代社会において、標準語圏内に住むほとんどの20代女性は、このような、昭和テンプレ的な女性言葉を使わないだろう。にも関わらず、平成生まれの作家がこのような言葉使いを使ってしまうということは、コンテンツが、先行作品の形態に引きずられざるを得ないという、作品創作における模倣の必然性を意味する。これは、当該作家の限界ではなく、創作に伴う必然的限界である。劇団未踏座の例に限らず、他劇団でも、言葉遣いに関する同様のテンプレ的表現は見られる。それらの作家は、洋画の吹き替え、マンガ、アニメ、演劇など、これまで自身の見てきた先行作品の中で多用される形態によってしか、自己の思想を表現することができない。何度でも言うが、これは当該作家が劣っているということではなく、作品制作の必然である。しかしこの必然から逃れ、独創性を掴むための方法があり、これこそ、ジャンル間の越境である。先行にない形態を自ジャンルにおいて表現する場合、作家は、過去のテンプレの反復によっては表現し得ない事態に、必然的に遭遇する(逆にそのようなつまずきに遭遇しなければ、それらジャンル間には差異がなく、越境性はなかったということになる)。そのつまずきに際して、強引に・無理に翻訳・変換・加工すること、ここにこそ、新しい形態の可能性が宿るのであり、それこそ、作家や時代の独創性と言われるところのものである。
 普通、我々は現実界 Real に直接アクセスする方法を持たない。虚構的なフィルターを通してのみそれらの「現れ」に触れることができる。そして、そのフィルターによって構成される世界は、現実 Reality と呼ばれる。このリアリティは、フィクションの中で培ったわれわれの思考形態によって知覚可能なもののみをわれわれに見せる。どれだけ現実の女性の言葉に触れていたとしても、作家が作品を書くと、昭和的にジェンダー化された女性言葉しか書けないのは、われわれが触れているのが、現実界 Real ではなくリアリティという名の虚構であるからだ。我々はリアリティしか知覚できない。そして、ジャンル間の越境にともない我々が経験する、2つの先験的フィルターの翻訳に際してはじめて、我々は、リアリティのフィルターからこぼれ落ちる、現実界の断片をかいま見ることができるのだ。刹那的に存在を示す現実界の断片を表現するための、新しい知覚の枠組み=フィルターを提示することのできた作品のみが、独創性があると言われる。

『虎と娘』は観客の認識枠組みを変えるか(挑戦的か)

 思考をしなければ把握できないような新しい現実としての作品、見る前と見る後とで現実的な枠組みが変化してしまうような劇的な事件としての作品を、人はコンテンツに期待する。人が思考したり、認識枠組みを改めたりするためには、自己単体だけでは不十分で、その実現のためには媒体が必要であるからだ。
 本作『虎と娘』が、個々の素材がそのまわりに配置されるところの思想形態としての中心的テーマは、身分制社会批判・権力批判であった。これは、超単純化して言えば、「権力欲や自尊心のために身分制差別を行うのは良くない」ということである。これは、平成の現代社会において、常識的である。したがって、作品を見る前と見た後とで、観客の思考枠組みには何ら変化が生じない。なぜなら本作にこめられたテーマが、現代人にとって自明だからである。「快楽で人を殺すことは良くない」と同じくらい、「権力のために人を差別するのは良くない」というのは、自明である。
 そもそも、ナチス的なユダヤ人差別の歴史に対して、独裁者(またはその潜在性をもつキャラクター)による権力欲という観点から事態を把握する手法は、ヨーロッパが自身のイメージ・ロンダリングに使う方便の一つであり、市井の名もなき一般市民がなぜあのような際限なきユダヤ人差別を欲望したのかという点に対して、何の仮説も提示しない(ユダヤ人に対するあれだけ過激な発言が、一般市民に喝采で迎えられた理由に関して、何も考えを提示しない)。権力欲を差別の原因にする発想は、非常に旧い理解図式である。したがって本作『虎と娘』を見るほとんどの観客は、ヒト・トラ的な権力欲と身分制差別の結託を、他人事として、自分には内在しない、外部的で悪魔的な欲望として、見ていたことだろうと考えられる。むろん、そのような悪意が、恋愛という我々になじみ深い形式を経由することによって我々に近しいものとして提示されているのであるが、思想としてヒト・トラの語る言説が、平成を生きる我々にとって自明に悪である限り、どれだけ舞台上の高い位置に立って「俺は差別の王になる」と誇り高く宣言したところで、ギャルゲで言うところの「死亡フラグ」にしか見えない。その瞬間から観客は、物語のラストが予測でき、ヒト・トラが破滅に向かう予定調和的なシナリオが明白になる。この点、すなわち作家の思想という点に関して、幻灯劇場は時代の感性に対して同語反復的であり、劇を見る前の我々の認識枠組みに対して差異を持たないが故に、我々を揺るがさない。本作が我々に提示しているものは、徹頭徹尾、我々が作品を見る前からその中に浸っている認識枠組みであり、したがってどれだけ悲劇的な結末を迎えようと、予定調和的で、「安全に泣ける」物語でしかない。つまり、まったく挑戦的ではない。
 もし仮に、観客に対してラディカルな影響を与えたいのであれば、本作はまずその世界前提から変えなければならない。例えば、「人と動物間の差別は良くないと認識されている近代社会」に背景を設定し、人・動物が平等であるべきとの理念が共有されているにも関わらず、人が差別的効果のある行為をとらざるを得ない状況を描き出し(例えば現代的レイシズムや、回避的レイシズムといわれるものからの逃れがたさ)、我々が自明視してる日常的なモードに対して批評的になるような形態を、とらなくてはならないだろう。

幻灯劇場の古さ

 幻灯劇場は、今年(2016年)の2月、Kyoto演劇フェスティバルに特別企画として参加し、京都文化芸術会館にて作品『ファントムペインに血は流れるか』を上演した。当作は、次のような思想形態によって特徴付けられている。

  1. [家父長制] 許嫁制度、支配的な父による女性身体の独占
  2. [68年的・新左翼的な反権力パフォーマンス] 盗人青年による、対幻想(=恋愛)を介した、父からの女性の救済
  3. [80年代ポストモダニズム] ナンセンスな言葉遊びによる権力攪乱

(1) は古典的な家父長制で、この家父長制が (2) の新左翼的叛乱によって乗り越えられる。新左翼的な用語で言えば、国家権力(共同幻想)と結託した家父長の権力が、男女の恋愛(対幻想)によって乗り越えられるというわけだ。(3)のナンセンスな言葉遊びは、日本的な文脈で言えば、80年代ポストモダニズムニューアカブームで流行した、自閉的で遊戯的な言語ゲーム・知の戯れに相当する。
 いずれも、非常に古い。そのような古いテーマ・形態・意匠を、現代においてオリジナル作品として上演する意義について、疑問を抱かざるを得ない。もはや父的なるものの権威が失墜し、理想としての大きな物語(国体や共産主義)が失われ、反権力・反父的なるものでありさえすれば新左翼が手を叩いて喜んでくれるような時代ではない。生涯未婚率が3%以下だった1960年、5%以下だった1980年と違い、いまや生涯未婚率はおおよそ20%を越え、「家父長制イデオロギーに準拠して強制的に維持される結婚制度」は弱体化したばかりか、逆の状況が問題化している。いまや人々が個人化し、配偶者選択が自由化されたがゆえの決定不能性に陥っており、かといって今さら家父長制的強制力に回帰することもできず、ロマンティック・ラブ・イデオロギーへの強迫観念が人々を、際限なき自己呵責に追いやっている。また、80年代的な遊戯的言語ゲームは、90年バブル崩壊、95年のオウム・阪神大震災によって木っ端みじんに消えた。そもそもニューアカブーム自体、経済的条件が可能にした一時現象、すなわち高度消費社会化によって浮かれただけのバブルであったし、ポストモダニズム的な思想を吸収し社会性を無視した相対化ゲームの果てにできたのがオウム真理教であり、また阪神大震災は、言葉遊びによる象徴秩序の攪乱によっては乗り越えられない現実界を我々に示したのであった(したがって90年代は、政治の時代になる)。『ファントムペインに血は流れるか』は、そのような歴史的経緯を一切無視して昭和に回帰する。また、新作『虎と娘』においては、(いま日本で話題になっているところの)現代的レイシズムに触れず、古典的レイシズムそれも身分制度という日本では明治によって(表向きは)否定されたものを作品状況の前提とする。なぜなのか?
 もちろん、かつての時代の人々の記憶を呼び起こし、鎮魂すること、と答えられるのかもしれない。しかしそうであるならば、現実の史実を忠実に再現すべきである。例えば、幻灯劇場『虎と娘』が京都学生演劇祭で初上演された9月1日は、関東大震災が起きた日である。『九月、東京の路上で 1923年関東大震災ジェノサイドの残響』によれば、東京杉並区、烏山神社には13本の木があり、1本は殺された朝鮮人労働者たちのために、そして12本は殺した日本人のために植えられた。このことが意味するものは何なのか。それを描くだけで、「仮に実に昭和的なテーマを扱っていたとしても」、現在進行形の問題があって現代的意義がある、挑戦的であるだろう。しかしながら幻灯劇場があえて遠い場所・遠い過去、現代日本において民族的な関連性の相対的に低い人種であるユダヤ人の、ホロコーストを参照するのは、なぜなのか? しかも史実の再現=リプレゼントとしてではなく=我々に過去を知らしめる形としてではなく、動物的寓意として構成するのはなぜなのか。彼らは、現代にも続く市民的な差別への欲望を取り上げるわけでもなく、身分制社会における権力志向を体現するステレオタイプな「ヒトラー」像をとりあげて差別一般をこの一点に悪魔払いし、遠くの場所に配置することによって、自己=観客を安全な場所に配置する。いまも目の前のすぐここにある、引き継がれてきた差別への欲望(例えば、身分制ではなく近代的なレイシズム・現代的レイシズム・回避的レイシズム等)に焦点をあてることをしない。すでに歴史的審判が下っているがゆえに内的な葛藤を抱えることなく観客が「うっとりと安全に」泣けるようにするための仕組みとして、ステレオタイプな権力者としてのヒトラーを配置したのではないかと、推測せざるを得ない。
 『ファントムペインに血は流れるか』における「メクラ」「キチガイ」といった語彙を使った昭和的意匠のコスプレも同様である。安全に痛い昭和的オブラートで包むがゆえに、挑戦的ではない。例えば、「皆が私のことをメクラ・キチガイって言うの! 私はメクラでキチガイよ」という台詞があったとする。これと、「皆が私のことをガイジ・ヨウゴって言うの! 私はガイジで、ヨウゴなの」と、少女が嬉々として語る場面とを見比べてみるがよい。前者の場合、昭和的意匠を媒介するが故に現代人の我々にとっては比較的安全であるが、後者の場合、多くの観客は社会的に共有された罪悪感や、舞台に対する個人的な不快感を抱くだろう。なぜなら、少なくない小学生は現在進行形で、日常的に支援学級の生徒に対してそのような語彙を発しており、これは我々にとって憂慮すべき事態で、我々の近代的理念を揺るがす傷であるからである。また、それら語彙(ガイジ・ヨウゴ)の外挿によって生ずる観客の不快や、作家に対する怒りを、どのように回収すべきか、という場所から作家の格闘がはじまる。そしてそのような作家の格闘の痕跡は、作品のテクストに宿ることだろうし、観客はそれを自身のものとしてたどるだろう。しかし、いまだ階層性が強く障害者が社会的身分として低い場所に、社会的正統性をもって配置されていた時代の、当事者による自称(「めくら」「きちがい」)を、後に平成的な平等主義によって放送禁止用語に分類されたという程度の危険さで「ちょっと危うい匂いのする毒物」のように参照させてみせる点が、コスプレ的で、サブカル的であり(鳥肌実的なキモさがある)、被差別的ナルシシズムまたは被差別者に対するフェティッシュな物象化を感じさせる。そして、制作者たちはそのことに対してまったく屈託が無い(=批評性が無い)ように思われる。

幻灯劇場はなぜ独創的でないのか

 幻灯劇場はなぜあえて古いテーマを作品に込めるのか。なぜ現代的なテーマで挑戦しないのか。
 これは、問いが間違っているように思われる。あえて古いテーマを作品に込めているのではない。彼らは、古いテーマの形態でしか作品を構成できないのだ。なぜなら、独創性が無いからだ。ここで、幻灯劇場が演劇学校出身者で占められるということに注目しよう。彼らが演劇オタクであり、演劇ジャンル内の先行作品にばかり関心を抱いてきたため、ジャンル越境的な独創性が着床せず、過去の反復によってしか自らを表出できないという、仮説を立ててみよう。彼らは演劇オタクであるがゆえ、リスペクトする過去の演劇作品を反復することによって自足している。過去の演劇作品は、当の時代の社会的諸条件によって可能となった思想が、その形態にはりついている。したがって、過去作品の模倣は、過去の思想をそのままコピーすることにほかならず、したがってどれだけ洗練された模倣をくり返したとしても、ノスタルジーの醸成にはなれどそこに独創性や時代的ラディカルさは胚胎しない。なぜならそれら作品を可能にした思想は、歴史の審判によって既に判定が下され、肯定的な評価が定まっているからである(評価されず、失敗として切り捨てられた思想は、現代に生き残らない)。
 いままさに、どのような審判が下るか分からない、現在進行形の論争的なテーマを、決して幻灯劇場は扱わないだろう。なぜならそういった思想は、過去の作品には登場してこなかったからであり、演劇オタクである(と考えられる)彼らにとって、模倣の対象とはならないからだ。

劇団ACT『ブラジル』(京都学生演劇祭2015作品)との比較

 劇団ACTは、京都産業大学のサークル劇団である。京都産業大学とは、その名の響きの通り、資本主義的な世界でガンガン経済的利益を産み出せるようなイケてる人材を輩出するという目的に沿ってすべての価値が配置される空間であり、経済的実用性にしか興味がなく「文化?なにそれ儲かんの?」的なヤンキー精神をもった奴らがメインストリームとしてのさばる場所である。スポーツに強く、体育会系のノリだけで世の中を渡っていける(と自称する)コミュニケーション志向のジョック野郎みたいなのがキャンパスを支配していて、文化系サークルはキモヲタ扱いされてい、道を歩いてるだけで「端っこを歩け」と尻を蹴られるし、コンテンツに賭ける演劇人間は、じめじめした場所を好む昆虫としてしか見られておらず、またそのような存在としてしか生存を許されない。そのような場所である(と考えられる)。
 そのような、演劇とは無縁の場所から昨年、劇団ACTの『ブラジル』(京都学生演劇祭2015審査員賞)という独創的な作品が出来したということは、すべての価値が演劇を中心に標準化されて配置される演劇学校出身の演劇オタク的な集団からは独創性が出てこない、という仮説を検討するわれわれにとって、興味深い現象である。なぜ演劇と最も遠い場所から独創的な作品が出来し、演劇にどっぷりつかった場所からは、独創性のない作品しか生まれないのか。それは、これまで迂回して語ってきたことから、もはや明らかであろう。独創性がジャンル間の越境性にあると主張するに際して先述した2つの境位を、順に見ていこう。
 まず第一にジャンル間の思想移管のレヴェル。演劇とはほど遠い環境にあるがゆえ、京都産業大学は他ジャンルの宝庫である。具体的には、劇団ACT『ブラジル』は、三浦展によるファスト風土論に端を発するゼロ年代の郊外論と格差論(あるいは2014年代に現代的に郊外論のリバイバルとして流行した原田曜平のマイルドヤンキー論)を参照し、これを演劇内作品に輸入したものと考えられる。あるいは、それら諸理論を可能にしたテン年代の社会的諸条件と、社会共有化されたそれへの問題意識が、京都産業大学という環境のまわりに構成されていたがゆえに、身近な状況としてその中を生きる作家をして、作品へこれを着床させることを可能にしたのだと考えられる。他方で幻灯劇場的な演劇学校は、演劇的価値によって周囲の環境が構成されているがゆえに、外部の問題・事象へとアクセスまたは参照する、欲求・動機・必要性がないと考えられる。彼らの生活意識は、先行する演劇コンテンツや周囲の演劇関係者の制作物を中心にぐるぐる回る自閉的な自己参照であり、外部ジャンルを必要としない。
 第二に、ジャンル間の越境にともなう変換・翻訳のレヴェル。仮に、『ブラジル』の作家が、実のところ郊外論的な題材を<意識的に>外部参照したわけでは“なかった”、と仮定しよう。その場合にしても、外部ジャンルの素材(例えば現実に作家の友人や聞いた話でもいい)を舞台上の形式に変換する際、作家の潜在思想が、全体の中での素材の配置関係や構成に影響を与える。潜在思想は無意識的で、別言すれば主体の社会的身体を構成する規範や環境(ここでは京都産業大学という場)に強く規定されているがゆえに、この磁力によって外部の素材が、独自の加工を加えられて舞台上に物質化することになる。
 これは非常に重要である。なぜなら加工の仕方によって、作品は大きくその形式を変えるからである。
 仮に幻灯劇場が、テン年代郊外論をベースに『ブラジル』に似た物語を志向したとしよう。彼らの潜在思想は先行作品の思想をベースに組み立てられているがゆえに、その作品はおそらく、非常に昭和的な形態をとることになっただろう。具体的には地方社会のディスコミュニケーションを、身分制社会や階級闘争や障害者フェティシズムの周りに配置するだろう。超単純化して例にすれば、石原慎太郎的な、大学の夏休みをヨットで遊ぶような上流階級と、高卒後肉体労働者として働く下層階級の階級間対立として描き、そのうえで男女の対幻想が、過去の外傷による被差別的ナルシシズムの分有をきっかけに始動し、社会的障害を乗り越えようとするが資本家的な社会権力によってこれが阻まれ、最後に死ぬ、という形式をとるだろう。ここで、『ブラジル』的な現代状況—階級世襲による顕在的差異が縮減し、過去のトラウマで自己存在を根拠づけられるような社会の外部駆動装置がマーケットに回収されて消滅し(=単なるメンヘラコンテンツとしてネタ化し)、それでもなお土地や社会関係資本や社会制度の構造、あるいは小さな偶然によってディスコミュニケーションが発生せざるを得ない現代状況、表面上の差異がまったく見えない(皆オシャレをしてファミレスでご飯を食べれる)にも関わらずまったく異質な者同士となってその差異がコミュニケーション上に可視化されてしまう現代人の状況—とは、文脈上まったく異なった昭和的思想形式が、幻灯劇場の場合は、舞台上に物質化されることになるだろう。昭和的な潜在思想=思想環境に浸かり、それによって自我の同一性をキープさせることができるため、現在進行形のアップデートを必要としない。そのような過去の価値基準の世界を生きる限り、どれだけ現代的な顕在的素材が与えられても、昭和的な潜在思考によって昭和的な加工が施され、昭和的な形態の作品ができあがるだろう。
 このような変換形態は、現代日本の路上のアンチレイシズム運動で否定的に言及される、「ヘサヨ」のイデオロギー的固執を連想させる。ヘサヨとは何か。

Kino Toshiki @Kino_Toshiki 2013-06-05 22:11:31
3月にプラカ隊が抗議を行ったとき、ふつうのK-POPファンの女の子たちも参加してくれたんだけど、「あの子ら慰安婦問題も日帝の植民地支配も知らないくせに!」みたいなことを言う人がいたのね。私らが「ヘサヨ("ヘイトスピーチに反対する会"的な左翼)」と呼んでいるのはそういう人たち。
「ヘサヨ」とは何か(わかりやすい解説) - Togetterまとめ

 「ヘサヨ」的左翼とは、行動保守・在特系の路上ヘイトスピーチ在日コリアンに対する差別煽動表現)が、すべて日帝支配の歴史的経緯に端を発するわけだから、ヘイトスピーチへの反対はそれへの反省によって駆動されねばならず、端的な反差別意識K-POPファンや右翼がヘイトスピーチそれ自体に反対することは欺瞞的である等々といった発想の物質化された形態である。すべての関連現象がある単一のイデオロギー的な原因を根にもち、その根本的解決をなくしては個別問題の解決はないとする見方は、イデオロギーから逃れられないわれわれにとって必然的な思考形態であるわけだけれども、それは時代によって常にアップデートされていくべきところのものだ(また複雑な社会を単一のイデオロギーによってではなく、複雑なまま理解する能力を身につけるべきところのものだ)。アップデートされ現代を生きるアンチレイシズム界隈にとって、「ヘサヨ」は旧型左翼の紋切り型イデオロギーであり、それによっては解消しない問題が現代的レイシズムにはあるがゆえに、乗り越えられる必要があった。
 その観点から言えば、本作『虎と娘』は、差別は根本的・本質的に「人を階級的に固定し、踏み台にしたいという権力への意志」が根本的原因であるという非常に繰り返されてきた差別批判イデオロギーに強く依存する。しかし先述したように、ヒトラー・アイコンを介したそのような「悪魔払い」によって解消しない問題が、現代にはある。もちろん、権力者としてのヒトラー批判・権力欲的な差別批判も、やる分にはいいだろう。しかしながらやはり、先述したように、現代的レイシズムすなわち在特会ネトウヨ言説の多くには、「われわれ日本人は在日に差別されている、在日に支配されている」という被害意識があり、彼ら差別主義者の多くは権力をもたず、また権力への意志もない小市民であって、むしろヒトラー的な図像を在日(彼らが構成するところの支配者としての在日)として措定し、またヒトトラ=在日的な連想で「被差別者すなわち在日こそ最も人すなわち日本人を差別するものである」と考えるがゆえに、『虎と娘』によるヒトラー媒介型の悪魔払いは効果をもたない(批評性をもたない)ばかりか、逆効果でありさえする。
 独裁者ヒトラーという像への批判は、在特会ネトウヨもアンチレイシズム界隈も前提とし受け入れるであろう思想形態であるがゆえに論争を呼ばず、まったく挑戦的ではない。本作『虎と娘』の身分制差別批判・権力批判に涙を流して感動したと述べる観客を前にすると、ここ6年近くのアンチレイシズム運動に全く関心がないんだなろうなという悲しみが、最近のアンチレイシズム関係者には生ずるに違いない。もちろん、人が、限られたある特定の事象にしか関心を持たないことに、まったく罪は無い。人が社会のすべてのことに関心を持つことは不可能だからだ。しかし演劇は観客に対してそれまで知られていなかった事柄への関心の入り口を開き、論争を呼ぶことができるわけである。にも関わらずそのような入り口を提示する演劇の機能を放棄し、すでに審判の下されて反論もないだろう過去の社会構造を、現在の審級から固定的に配置し、男女の恋愛に接合してセカイ系を構成し、安全な感動ファンタジーを建築する『虎と娘』の手法は、中高生に対しては情操教育として意義があるだろうし、すでに社会をアガった高齢者に対してはノスタルジーの快楽を提供するだろうが、成熟した成人にとっては、子供騙しである。

主体の真実の配置の仕方

 これまで、作品のテキストにあらわれる思想形態という観点から、独創性について記した。幻灯劇場の名誉のために述べておくと、ここでは、舞台芸術としての表現手法・演出・演技に関する独創性については、触れていない。したがって、ここまで独創性に関して述べたのは、社会との関連としての作品の思想の観点、それも現代性に価値の重きをおいた上での観点に限定されている。
 幻灯劇場の「古さ」について、ここでもう一つ追記したい。主体の真実の配置の仕方に関するテクニックについてである。結論を先取りすると、幻灯劇場は「近代的主体」を構成する手法を多用して主体の真実(らしきもの)を舞台上に出来させ、他方で劇団ACT『ブラジル』は「インターフェース的主体」によって舞台上に差異を導入し主体を駆動させる。説明しよう。

 インターフェイス的主体、言い換えればポストモダンの主体は、スクリーンをたえずイメージとシンボルとに二重化している。同じ二重化をかつての近代的主体は、スクリーン(見えるもの)とその背後(見えないもの)の弁証法によって組織していた。
東浩紀サイバースペースはなぜそう呼ばれるか+ 東浩紀アーカイブス2』p.96

 ここで「インターフェース的主体」とは、劇団ACT『ブラジル』が舞台上に開示する主体である。他方で幻灯劇場が舞台上に開示し、観客をそこへと没入させるところの主体の形式が、「近代的主体」である。幻灯劇場は、見えるものとその背後の弁証法によって舞台上の主体を構成する。具体的に言えば、光景と情動の交錯した説明的長台詞を錯乱的な早口で語ったり、自由連想法的な言葉遊びによってズレていく会話言語のテクニックである。それは原理的に観客にとっては把握し切れない過剰性をもつが故に、表層の背後の位置に、過剰性の源泉としての真理をほのめかす。これは心理的な効果であり、単なるテクニックであって、<実際に>その奥に真理としての統合的な Real が隠されていることを必ずしも意味しない。あたかもそれら攪乱的言語ゲームを統合する単一の全体性=真理が、背後に隠れているかのように舞台を擬制する、否定神学的な技術である。幻灯劇場の役者は、通常の日常言語からは逸脱するような非日常的テクストを、あたかも統合的規範にしたがって構成されているかのような、大胆な身体表現で披露する。それら身体作法は、彼らがこれまで観劇して来た様々な演劇作品からパターン抽出され、テンプレートとしてストックされてきたものの、組み合わせによって可能になっていると考えられる。極端に言えば、いかなるナンセンスな台詞も、役者にストックされたパターンの組み合わせによって、何も考えることもなく「それっぽく」表出することができるように彼らは訓練されているということだ。例えば以下のような台詞があったとする。

これすなわち世に暴政府のある所以なり。ひとりわが旧幕府のみならず、アジヤ諸国古来みな然り。されば一国の暴政は必ずしも広く悪(にく)むるにあらず、この一身の自由を妨げんとする者あらば政府の官吏も憚るに足らず。ましてこのごろは四民同等の基本も立ちしことなれば、いずれも安心いたし、ただ天理に従いて存分に事をなすべしとは申しながら、およそ人たる者はそれぞれの身分あれば、またその身分に従い相応の才徳なかるべからず。身に才徳を備えんとするには物事の理を知らざるべからず。物事の理を知らんとするには字を学ばざるべからず。これすなわち学問の急務なるわけなり。
http://queryeye.in/36

 これは、福沢諭吉「学問のすゝめ」の全文をディープラーニング人工知能技術のひとつ)にかけて機械的に生成した、「福沢諭吉っぽい文章」であり、内容はまったくのナンセンスである。このプログラムは、元の文の意味連関を何も考慮にいれず、単に表面的な頻度を学習し、いかにも「意味があるっぽい」空虚な文を作るシステムである。人がそれを勝手に「すごい」と勘違いするだけである。
 このようなナンセンスな長台詞があったとして、幻灯劇場はためらいもなく「それっぽく」読むことだろう。そして、言語的には全体性が把握できない言葉の横滑りを、あたかも自らの真理を開示するかのようなそれっぽさで躊躇いなく読み上げる役者の演技を前にして観客は、その奥に統合的な「真理」を錯視する。これが幻灯劇場のテクニックのひとつである。そしてその奥に、意味のある「真理」はない。単にそのような効果があるだけである。そうして観客は「言葉のセンス」「オーラ」「身体」「無意識から横溢する作家の言語感覚」といった曖昧な語彙で、非言語的に評価するわけである。
 このような、観客と舞台上との共犯関係によって醸成される<真理>の擬制こそ、東が「〔近代的主体において〕見えるものはあくまで表象の世界(見せかけ)にすぎず、その背後に信憑された見えない象徴秩序(真理)が主体間のコミュニケーションを保証する」と言う際に念頭におくものである。

 かつてはイメージは見え、シンボルは見えなかった。つまりそこでは、見えるものはあくまで表象の世界(見せかけ)にすぎず、その背後に信憑された見えない象徴秩序(真理)が主体間のコミュニケーションを保証していた。
東浩紀サイバースペースはなぜそう呼ばれるか+ 東浩紀アーカイブス2』p.96

 このような主体の作法は、「語り得ぬものについては沈黙しなければならない」(ウィトゲンシュタイン)や「呼び声はただ沈黙という様態をとって自己から発せられ自己へと向けて呼びかけられる」(ハイデガー)といった思考形態、すなわち非言語的な様態に価値をおき、それによって主体を統合しようとする否定神学的な作法の亜種にほかならない。幻灯劇場の公演を見た観客がしばしば神秘主義的で非言語的な形式をもちいて感想を語るのは、このためである。
 他方で、劇団ACT『ブラジル』における舞台上の「インターフェース的主体」とはいかなものであろうか。

対していまや、イメージとシンボルとはともにスクリーンの上に「見えて」いる。20世紀後半のポストモダンの主体は、その全面的可視性、ポストモダンをめぐる言説の中でより一般的な表現を使うならば、その全面的表層性(すべてはスクリーンの上にある)の中でこそ主体性を設立しなければならない。そこではもはや、主体を主体たらしめる二重化のメカニズムは、「見えるもの」と「見えないもの」の区別に沿って組織化することはできない。
東浩紀サイバースペースはなぜそう呼ばれるか+ 東浩紀アーカイブス2』p.96

 いまや我々は全面的な可視性の中を生きているから、かつての時代(幻灯劇場が参照するような時代)と違って、沈黙や、「ナンセンスの背後の隠された真理」によって統合されるような大きな物語をもたない(もしそのようなものによって駆動される生の領域があるとすれば新興宗教の中にしかなく、したがってそのような手法が社会的に広い範域で共有されることは不可能である)。東が「〔現代においてはもはや〕主体を主体たらしめる二重化のメカニズムは、『見えるもの』と『見えないもの』の区別に沿って組織化することはできない。」というのはこのことである。
 劇団ACT『ブラジル』の言葉や役者の身体表出は、すべて可視的で、意味の同定が可能である。にもかかわらず、そこに不気味な差異が発生し、この差異に没入することによって主体は駆動される。

見えるものの全面化によって、見えないものの存在に脅かされる主体が成立しない。インターフェース的な主体は、見えないものの代わりに、見えるものをいかに分割化し二重化するか、スクリーンを、イメージをいかに分割するかに関心をもつことになる。
東浩紀サイバースペースはなぜそう呼ばれるか+ 東浩紀アーカイブス2』p.105

 インターフェース的主体は、「見えるもの」同士の間に差異を見出し、その間の相互移行によって主体を駆動させる。具体的に言えば舞台上の個々のキャラクターの、全面的に開示された境遇の差異によってである。したがって劇団ACT『ブラジル』において、その差異はいくらでも言語化できる。仮に、ある任意の場面で意味不明に見えたディティールのひとつも、見終わった後には遡及的に意味を同定可能な形で、構成される。逆に幻灯劇場のディティールは、心理的効果のための道具であり本質的にナンセンスでも構わない、形式のための形式として配置されているがゆえに、劇を見終わったあとになっても同定不可能であり、そしてこの同定不可能性にこそ<真理>があるという否定神学擬制によって、観客の主体を駆動させる。
 別の言い方をすれば、劇団ACT『ブラジル』は個々人の複数の規範間のあいだを往復することによって、観客の主体が構成されるがゆえに、多神教的であり、すなわちバラバラな「小さな物語」を生きる現代人の生き写しになっている。幻灯劇場では、複数のキャラクターによって駆動されるナンセンスなやりとりが、同定不可能性によってその背後の単一の真理を擬制し、その真理と表面上の会話との差異によって、観客の主体を駆動させる。よって幻灯劇場の舞台を見る観客はこう思う—「この二人の登場人物の会話は意味不明で私には理解不能だけど、登場人物達は本当に理解して意味があるかのように会話しているから、きっと大事な意味があるに違いない。そしてそれが理解できないのはきっと私が未熟だからだ。もっと凝視してそれを把握しなければならない。いまだその意味は私には把握不可能だけれど、不可能なゆえに神秘的で、“深く”、真理に違いない」。

劇団ZTONの倫理的代補としての幻灯劇場

 ここまで、幻灯劇場の古さについて、あたかもそれが価値の低さであるかのように語って来た。しかしながらそれは主に「レイシズムに関する倫理的寓話」という(先だって知人から聞いていた)先入観をもって見た際の違和感をベースに組み立てられた言説であって、その先入観との視差に焦点をしぼってのみ語るのは、先述した通り「この昆虫図鑑には鳥類がのってないのでけしからん」と言っているようなものであり、下劣である(したがって反省する)。そのため以下では、幻灯劇場の未来の可能性という観点からその価値を検討する。その説明の媒介となるのは、劇団ZTONである。
 劇団ZTONは、立命館大学は劇団月光斜メンバーによって10年前に設立された劇団で、歴史を題材とした殺陣ファンタジーである。その物語は、史実を組み合わせながらも、現実世界に接点をもたないことに特徴付けられる。それは例えば、「覇道ナクシテ、泰平ヲミル」が現実の中国の歴史や、現代の中国と日本の政治的・文化的関係に関連せず、純粋な虚構、純粋なエンターテイメント・ファンタジーであるという点に象徴される。
 ここで注目すべきは、次の点である。このタイプの物語は、不透明な自己にとらわれ社会的領野へと関心を拡げることのできないある種の個人にとって、異世界幻想の充足を与えるということ、これである。例えば「覇道ナクシテ、泰平ヲミル」シリーズを例にとると、これは貴族的な血統の継承や精霊の憑依によって、一個人が超越的な力を得て、セカイ史的な戦いに参入する冒険ファンタジーである。
 90年代「ムー」等のオカルト雑誌の読者投稿欄には、次のタイプの投稿が多数散見された—「私の前世の家族を探しています。私の前世はxxxxxxです。至急ご連絡下さい」。このような前世・転生妄想に取り憑かれるのは、現代社会において、自己統合に失敗し、不透明な自己に苦しんでいるタイプの人々によって構成されていると考えられる。彼らは社会的領域へと関心の触手を伸ばすことができないため、不透明な自己の中で作り上げられた独自の「セカイ」体系に没入する。ZTONの舞台は、そのような若年層の空想に親和的な形態のファンタジーを提供することによって、絶大な人気を得ている。
 幻灯劇場は、このようなZTONの客層を少しだけ「シャカイ」に近づけたタイプの人々に人気が出ると考えられる。ZTON的な主体からは一歩進んで、社会的了見はあるが、しかしながら複雑な社会の複雑性に対応できないがゆえ、社会的事象への積極的なコミットメントにはいまだ踏み込めず、世界を不透明な濁りのひとすくいとしてしか感取しえない、そのような主体である(したがって現在進行形の問題には接触できないが、明確に審判が下されたヒトラーアイコンのようなものには明確な態度を示すことができるタイプの主体である)。このような主体にとって、あたしとあなたといった二人称以下の対幻想と、セカイ史的な問題(ホロコーストといった史実や核兵器といった現実界の典型的象徴)との、ファンタジー的想像力を駆使した接合は、自己と社会を安全に連結する機能をもつ。それは彼・彼女らが安心して没入できる、透明な世界観を提示する。このような世界観を提供することができる幻灯劇場は、当の客層にとって、ZTONによっては得られない倫理的領野をカヴァーした充足(=自己との社会との接合感覚)を与えることだろうと思われる*2。そしてまた幻灯劇場の多用する昭和的意匠(めくら・きちがい・奇形的身体障害・被差別的トラウマ)は、ナショナリスティックな欲望を触発し、例えば鳥肌実の軍服愛国パフォーマンスや椎名林檎の日の丸パフォーマンスにガチで没入するサブカル的ナショナリズムの、健全化した左翼バージョンとして機能する。それは結審済みの遠い過去を、ナショナリズムと同型的なやり方でテコとして媒介する主体の再構成を可能にし、普遍主義的な左翼的サブカルチャーを構成するだろう。このような左翼的サブカルチャーは、ラディカルではないかもしれないが、非常に健全なものである。これは、鳥肌実が路上で行動保守と合流し「チョンコをぶち殺す」等と叫ぶ狂気*3や、椎名林檎的な冷笑的文化相対主義とは、異なる。なぜなら、普遍主義的な近代的理念の正統性に準拠するであろうからである。そしてその正統性は、繰り返し人類に刷り込まれる必要があって、にもかかわらず相対化とタコツボ化の嵐に晒される我々は、サブカル的幻想を通してでも、それら普遍的原理を身体に内面化せねばならない。
 ここに、幻灯劇場の可能性の中心がある。
 幻灯劇場は、ZTONの倫理的代補として、京都を代表する巨大劇団に成長する可能性を秘めている。

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*1:精神分析ラカンの用語を用いれば、「クッションの綴じ目、ポワン・ド・キャピトン」である。

*2:ところで、この辺で言っている「不透明な主体」とは、全体性や大きな物語をもたない我々のことである。したがってこれをメンヘラの話として外部化するのは間違いである。

*3:鳥肌実ヘイトスピーチ https://youtu.be/KaVvzyctBSw