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虚人たちが観客へおくるもの | 『LIVE FOREVER』 50hours スペース・イサン ピンク地底人3号クラス

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LIVE FOREVER
 50hours スペース・イサン
 ピンク地底人3号クラス

目次

あらすじ

 納棺師は死者の身体を洗い、老婆は腰を曲げ痛みを繰り返し叫ぶ。若き郵便配達人は死の通達を高速で老婆に突きつけ、雨は奇妙な動きを反復し、ゆっくりと死神が老婆へ忍び寄る。
 死に近づきゆく老人に対して若者が抱く残酷な感情(あるいは無知)を、若者の演技者が自己言及する。

解説

虚人たち

 筒井康隆は小説『虚人たち』の中で、小説の登場人物達が、自らが虚構内の存在であることを明確に自覚し、作家の要請に従って存在するただそれだけの存在であることをはじめから受け入れ、たえず自らの使命を遂行しながらも、単なる客体ではなく主体として、自意識をもって生きる様を描いた。

 本作『LIVE FOREVER』の登場人物たちは、自らの演技について自己言及しつつ、たやすことなく演技を続ける。
 こういった具合だ—「私は老婆だ、だから腰を曲げ、老婆らしい口の動かし方をし、のっぺりとした話し方をする」—若き女性が、若い声から老婆に変遷していきながら、これを実況する。実況しながらも、老婆としての存在に没入するのである。

 彼女たちは舞台上の「虚人」である。自らが虚構の存在であることを自覚し、要請された虚構内存在としての責務をまっとうしようとする中で、その様を客体視して言及し、若い役者の身体から、虚構内の老人へと変遷していき、落ち着いたかと思うとまた自己言及し、これを反復する。

湯灌の経験と「若者」

 冒頭で、葬式会社に勤める人物が、自らの職務を解説しながら、死者の服を脱がし、その裸体を布で覆い、身体の表面を足から顔まで、丁寧に洗っていく。これは湯灌(ゆかん)といって、葬儀に際し遺体を入浴させ、洗浄する行為である。

 これは、経験したことのある者とない者とで大きく印象が異なるだろう場面である。実際に近親者が死に、涙の乾く間もなく現実感の喪失された状態のまま、葬儀場へと死者とともに運ばれてきた者のみが経験してきた、非常に稀にしか遭遇しないであろうが、しかしながらこの世にとって普遍的に実在する光景のひとつである。

 「若者」は基本的に、これを知らない。この密室で行われる儀式に、居合わせたことがない。もちろん、はやい時期に血縁の喪失を経験したものもいるだろうが、しかしながら確率的な意味合いで「若者」とは、これを知らない者たちのこと、通過儀礼を終えていない者たちのことである。したがって舞台上のその作業を眺める「若者」たちは、これを単なる知識として見ていることだろう。これは、老いて多くを失ってきた経験をもつ人々では、まったく事情が異なる。おそらく目を背けざるを得ない、おそろしいシーンである。思い出すことが多すぎるのである。

経験の異なる2つの視点

 この納棺師の作業を、自らとは関わりのない知識として単に眺めるだけであろう「若者」の残酷さは、死者に対するもののみならず、老いに対しても向けられるものである。例えばそれは、90歳を超えた者が、どのような生活をしているのかということに対する理解の、程度の問題である。自らの足で歩くことができず、あるいは少しつまづいただけで腰骨を折ってしまうほどの脆さであり、移動のため脇から抱きかかえられた際に遠ざかる床の恐怖と、全身に感じる骨の強いきしみのことである。

 一日中立ちっ放しでいられるし、駆けることもでき、自分の足で便座に向かうことができるような「若者」にとって、このような「老い」の姿は、自分とは無関係のものである。特に、核家族化が進み、死や老いが隠され、清潔で安全な近代的空間を生きる現代人にとっては、「老い」とは身近なものではなく、遠くにいてごくたまに知らされる程度の姿である。

演技者への眼差しと、老いへの眼差し

 「若者」は、自身と完全に切り離すことができるゆえに、この老いた生に対して、残酷な感情を抱く。
 そしてこの残酷な眼差しとは、舞台上で演じている演技者の姿に、我々が没入できないときに、ふと感じる残酷な感情と、同型的である。

 なぜ、今、この者は、このような滑稽な姿を、醜態を、人々の前に晒しているのだろうか、と。これである。

 自らの演技の演技性について自己言及する役者の「声」は、物語への没入からはずれて、演技者に滑稽さを見始めた際の、観客としての我々の「声」である。であるからして、観客である我々は、我々の言葉を先取りして鏡のように映してみせるその行為に、嫌悪を抱かざるを得ない。画面を暗くしたスマホの画面に突如浮かび上がる、醜い自分の顔に、であったかのようだ。そしてそのグロテスクな提示は、「若者」としての我々が、老いた人々に対して抱く感情とオーバーラップして、罪悪感を与えるのである。

 私は、私が舞台上の演技者に滑稽さを見ていることを、舞台上から知らされるとともに、若者として、老いた身体に滑稽さを見ていることを、知らされるのである。それらは、若者が老婆を演じているということの自己言及を通して、我々に知らされるのである。

「痛い」と叫び続ける老婆と、痛くない我々

 老婆は、ベッドに横たわり、痛い痛いと叫びはじめる。これは非常に痛々しいシーンである。そして、この痛みは、「若者」である我々としても、落ち着いて見ることができない程に、強度をあげていく。それほどの強度の痛みであり、それまでの滑稽さとは、まったく隔たった限界状況である。老婆の叫びに、我々はここで、痛みの真実を、老いの真実を見ざるをえない。
 しかしながら実のところ我々は、やはり、非常に安全な位置から、自らは一切何ら痛むことなく、これを見ているのである。そして、我々が安全に痛い形で、老婆の痛々しい姿に没入しているまさにその時に、痛がっている老婆自身が、若者的な口調で冷静な自己言及をすることによって、この没入を切断するのである。観客は突き放される。我々は、その痛みへの欺瞞的な没入を自覚させられ、「老い」に対する共感から、切断されるのである。これこそ、共感し得ない「死」の強度であり、われわれの知らない場所にあるところのものである。

総評

 演技者が舞台上から我々観客の声を代弁することによって我々自身の姿を見せつけるという、観客を脅かす非常におそろしい劇であった。
「虚人」という観点から別言すれば、虚構内存在(=役)であるはずの舞台上のキャラが、とつぜん役者としての内面を吐露する、すなわち我々観客と同次元の存在としての声を出し始めて(=観客の声を代弁し始めて)、我々と同じ次元に立ち、観客としての我々の立ち位置を脅かしはじめる、非常におそろしい劇であった。

 そして観客とは、死に対して観客として安全に客観視したつもりでいる、我々のことでもある。

参考文献

虚人たち筒井康隆 
虚人たち (中公文庫)

虚人たち (中公文庫)

 

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