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ローカルウォッチ(麦)

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性的シナリオが隠蔽する恋愛の不可能性を暴露する - 遊自由不断、『花満たし』(Cブロック)| 京都学生演劇祭2016レポート #KSTF2016

遊自由不断、『花満たし』(Cブロック)| 京都学生演劇祭2016

あらすじ

 女子大生スミレは、聴覚過敏的な症状に苦しんでいて、ヘッドホンを肌から離さない。ある日スミレは大学構内で、メガネをかけた男の子に話しかけられるが、これとの会話を拒否する。他方でスミレは、同じ大学に入学した幼なじみのヤンキー君に話しかけられた際には、親密な表情で心を開く。だが、ヤンキー君の言葉「スミレは変わらないな」に引っかかる。スミレは変わりたがっているからだ。さて一方で、めげずに話しかけてくるメガネ君と、スミレは徐々に親密になる。メガネ君とヤンキーは、実は親友同士であることが判明する。観客には、二人がスミレをめぐって恋敵でもあることも示唆される。二人の性質は対照的で、メガネ君は頭でっかちな話し方をし、ヤンキー君は気合いとノリで話すタイプである。ある時、メガネ君が空気を読まずに、スミレに対して、あなたは病気だと告げる。ヤンキー君はこの直接的表現に激怒する(普通、ビョーキ認定は人を傷つけるだろうから)。だがしかしスミレは自身が病気であることを受け入れる。それによって自己責任の重荷をおろし、病と向き合い、明るくなった。そうして、メガネ君に惹かれていく。他方でヤンキー君はスミレに詰め寄る。スミレが「病気」という免責機構を利用することに対して、これを「逃げ」であるとして非難する。スミレはこれを拒絶する。そしてスミレは、ついにメガネ君と抱き合う。幸せなカップルの誕生だ。その直後、メガネ君とヤンキーが二人で話している場面にスミレは遭遇する。そこではメガネ君が、これがゲームであること、一人の女性を落とすことを目的とした、メガネとヤンキーの恋愛競争ゲームであることを話していた。ヤンキーは、競争に負けたことを悲しむ一方で、スミレと幼なじみであるが故に、罪悪感を抱く。が、ゲームのゲーム性自体は否定しない。これをスミレは遠くから聞いている。次にメガネはスミレがすぐ近くで自分たちの会話を聞いていることをヤンキーに伝える。ヤンキーは狼狽するが、メガネは悪意を隠すことなく堂々とスミレを侮辱する。そしてスミレに対し、終わった獲物に興味はないと宣言して、立ち去る。ヤンキーはこれを追う。メガネとヤンキーは、スミレを忘れ、新たな勝負のために、次のターゲットへ向かう。

解説

恋愛の本質に迫る

 この物語を、「女を騙す悪い男がいて、その被害者となる女性がいた」というただそれだけの話であると認識するのは、間違いである。むしろ逆である。これは、恋愛における普遍的真理を描く物語である。すなわち、恋愛におけるメガネ君的な戦略性は、恋愛の本質であるということ。またこの戦略性が恋愛の本質であることを知らず、幻想の向こう側に「ホンモノの実在」を信じてしまう人間は、うまく現実を構成できないで病気になってしまうというということ。これらが本作の主旨である。精神分析学者ラカンの用語を用いて言えば、欲望の対象=原因である<小文字の他者>(または<対象a>)は、幻想というフィルターによってのみその現実性(Reality)が担保されるのであって、幻想を取り払ったその先に<リアル(Real)なホンモノ(das Ding)>が実在すると誤って認識しこれに固執すると、人はヒステリーになってしまうということである。

空想の機能は、<他者>の開口部を埋め、その矛盾を隠蔽することである。たとえば、なんらかの性的シナリオの魅惑的な現前が、性的関係の不可能性を隠蔽する遮蔽膜として機能する。
スラヴォイ・ジジェクイデオロギーの崇高な対象』(河出文庫)p.236

「性的関係は成立しない」のであるが、この矛盾・この根本的な不可能性を、ある遮蔽膜が覆い隠す。これが恋愛の幻想であり、スミレの性的シナリオである。遊自由不断、による作品『花満たし』は、我々がそこから隔離されているところの性的シナリオの向こう側、幻想の向こう側にあるものを、メガネ君とヤンキーの両立不能性として明らかにし、また、これに順応できない人間が病に陥る様を描いた作品である。

コンスタティブ・マイルドメガネ VS パフォーマティブ・マイルドヤンキー

 メガネの話し方には何か奇妙なところがある。現に彼は、スミレやヤンキーから、その話し方の奇妙さを指摘される。メガネの話し方の奇妙さについて、説明しよう。
 言語には事実記述的(constative)な側面と、行為遂行的(performative)な側面がある。前者は、対象を事実として客観的に記述するという側面であり、後者はそれによって何らかの効果を生む行為的な側面である。例えば「あなたはハゲている」という言説を見てみよう。まずこれは一方で、眼前の人物の頭髪が少ないという端的な事実を述べた文であり、事実記述的である。他方でこれは、相手方に独特の心理的効果を与えるところの、行為遂行的な側面をもっている。上司に向かって「あなたはハゲている」と述べる部下は、単に事実を述べているだけではない。上司を侮辱し、上司の顔を真っ赤に染めるという行為をも遂行しているというわけだ。ところで、行為遂行的側面は、遂行者と受取側との関係性がその効果に影響するがゆえに、文脈依存的な性質を持っている。ストレスで来院した患者の頭皮を調べた医師が、患者に対して言明する場合、その言葉に侮辱的な行為遂行性は発生しないだろう。あるいは互いに薄毛である親密な者同士が、朝の挨拶として穏やかに冗談としてこれを述べる場合、全く別の効果を持っているだろう。このように、言語の行為遂行的側面には、事実記述的側面に対して独自の、社会的文脈依存性がある。
 レイシスト(国籍・民族・セクシャリティに関して差別的な態度をとる人)は、その両側面の差異を利用し、言語に事実記述的側面だけがあって、行為遂行的側面が無いかのように振る舞うことによって、その差別的効果を発揮する。「朝鮮人!」「同性愛者!」といった言動がこれである。「私は事実を述べたまでだ、にも関わらずなぜお前はそんな反応をするのだ? お前が朝鮮人(/同性愛者)であることは、事実だろう?」というわけだ。ところで、一般にアスペルガー症候群と言われる一群の人々は、他者の言葉を字義通りにしか理解することができず、間接的表現(例えば皮肉や、お世辞、文脈依存的な文法の発話)を理解することが難しいと言われている。つまり、アスペルガー症候群の人間は、文脈依存的で行為遂行的な言語の理解に障害がある。しばしばレイシストアスペルガーの振りをしてとぼけてみせるのには、このような意味があったのだ。

ベタ/メタな立場の転倒

 さて、メガネ君の話し方の奇妙さは、彼が事実記述的な側面に徹してすべて語っているように見えるところにある(例:遠慮なしにスミレに対して病気の可能性を指摘する点など)。いわばメガネ君は、中身はあるがコミュ力がない、空気の読めないステレオタイプとしてのオタク=アスペルガーを体現する。他方でヤンキーは、中身は無いがコミュ力の高さだけが取り柄であるマイルドヤンキーを体現する。
 物語の前半ではこの対比、メガネ=事実記述的と、ヤンキー=行為遂行的な対比によって、物語が駆動される。そしてそれらはスミレに対して、正反対の効果を与える。ヤンキーは確かにコミュ力が高くて、得意の話術でスミレに近づこうとするのだが、本人が自称するように「少し頭が悪い」ところがあり、これが問題となってスミレに疎まれる。他方でオタクメガネは、確かに空気は読めないが、インテリ的な印象をスミレに与えると同時に、またそれ以上に、知識が熟練されていて豊富で、はっきりと事実記述的に話すので、スミレに対し論理構造的なレベルでの変革を与える。ヤンキーが気分的な癒ししか与えないのに比して(そしてそれは失敗する)、インテリメガネは論理的な解決を提示する。そしてメガネは、結果的にスミレを救うことになる。
 しかし、物語が後半になるにつれ、上記の対立の組み合わせ、メガネ=事実記述的、ヤンキー=行為遂行的が、転倒する。これは驚くべき転倒である。
 本来、事実記述に徹するメガネは、ベタにしか物事を捉えられないところに問題があり、行為遂行的=高コミュ力的なヤンキーは、自身の行為遂行性をメタに捉えることができるはずだった。ここでヒステリー的な問い*1を思い浮かべてみよう。ヒステリー患者は、「どうしてお前は◯◯をするのか?」と問う。これをベタに受け取って、事実記述的に答えても、ヒステリーは決して満足しないだろう。なぜなら、ヒステリーが本当に求めているものは、別のところにあるからだ。例えば「なぜあなたはこんな大切な日に、遅刻したのだ?」というヒステリー的な問いかけに対して、事実記述的に「実は途中で急に知り合いに遭遇して、仕事の用事を思い出して上司に電話し等々...」と、遅刻の理由を列挙するのは間違いである。ベタに質問を受け取って、理由を事実記述的に列挙しても、ますますヒステリー患者の怒りをかってしまう。ここでヒステリー患者が真に求めているのは、遅刻の理由ではなく、「遅刻してごめんなさい」の一言である。したがってヒステリー的な問いに応えるためには、言語をベタな次元にから事実記述的に把握するだけではだめで、メタな視点に立って俯瞰し、その質問の真の意図、その言葉の行為遂行的な意図を把握する必要がある。

「逃げ」をめぐる言語ゲーム

 ここで、スミレの「逃げ」をめぐって、メガネとヤンキーが別々の回答をするシーンに注目してみよう。このシーンを、スミレのヒステリー的な問いかけに対する、2つの応答であると考えてみよう。一般的な常識的理解では、アスペルガー的=事実記述的なメガネは、スミレの問いかけにうまく応えることができないように思え、逆にコミュ力重視的=ヤンキーは、スミレの問いに応えることができるように思われる。しかし事態は逆となるのである。メガネが勝利し、ヤンキーが敗北する。なぜか?
 後のシーンから遡及的にこのシーンの意味が反転するのであるが、実はメガネは、事実記述的に述べていたのではなかった。あくまで「逃げ」をめぐる対話を、本質的には無意味ではあるが行為遂行的に見れば効果のあるだろう、単なる言語ゲームと見なしていた。メタ的な視点に立ち、「いかなる回答が彼女にとって有効に働くだろうか」という、徹底的な戦略性に基づいて発言していたのである。したがって、スミレの「病気」が「逃げ」であるかどうか、メガネにとっては本質的にはどうでもいいことなのであった。彼女がうまく納得し、自身に誇りをとりもどすような誘導言語を、適当に組み立てればいいだけなのであった(対面の会話は、即座に反応が返ってくるメディアであり、したがって個々の発言に対しどう相手方が反応するかを注意深く観察すれば、何が彼女によって心地よい言説であるか、何が彼女を不快にさせるか、機械的な手続きで抽出することができるのである)。他方でヤンキーは、ここでコミュ力=行為遂行性を忘れて、事実記述に徹底する。具体的には、ヤンキーの信じる考えを事実記述的な誠実さでスミレへ発信する。本来であれば、恋愛競争に勝つための戦略としては、ゲームに勝つための行為遂行的な言語ゲームを、彼はしなければならなかった。しかしヤンキーはそれを忘れ、事実記述的に自分の考えを発話してしまうのである。なぜならヤンキーは、彼女と幼なじみであり、完全には、この恋愛競争ゲームに興じることができなかったからである。戦略性=行為遂行性を忘れて、うっかり本音で自分の考えを(事実記述的に)話してしまったのである。「病気なんてお前、それは<逃げ>だよ。みんな多かれ少なかれそのような不安は持っているんだよ」ヤンキーが魂の底から叫ぶ感情的・即答的な言葉はもちろん、constativeな衝動的発言であるのだが、それは、スミレに対するメタ的な戦略を無視しているがゆえに、彼女の拒絶を招く。

恋愛をめぐる二つの態度

 ラストシーンで、メガネは自身の発言が自分の真意ではなく(=事実記述ではなく)、単に恋愛勝負に勝つためだけのperfomariveなパフォーマンスであったことをはっきりと宣言する。他方でヤンキーは、幼なじみであるが故に、競争ゲームのパフォーマンスに没入することができず、うっかり誠実に対応してしまったこと、そしてこれが敗因であるということが判明する。ここでメガネが実は、「事実記述的なアスペルガーの振りをしたパフォーマー」であったということが明らかになる。実はメガネは「本当はどうなのか」に一切興味がなく、ただ効率的な攻略ゲームを、最適なルートに沿ってプレイしていただけだったのだ。
 この二人の人間を、「完全に戦略に徹する、本質的に性格の悪いインテリメガネ」と、「悪いことをしているが実は根は優しいヤンキー」という、完全に独立し、かつ、観客にとって敵でしかないヤリチンどもであると見なすことは、間違いである。そのような見方は、恋愛の本質を完全に見誤っている。
 恋愛の本質とは何か?
 それは、我々が恋に直面した時、我々は戦略メガネとしても、素朴ヤンキーとしても振る舞わざるを得ない、ということである。
 恋した者は、相手方からのヒステリー的な問いに対して、戦略的に答えざるを得ない。例えば「髪切ったんだけど、似合う?」に対して、本当はダサくなったと思っていたとしても、「素敵だよ」と答えなければならない。なぜならそれこそ、ヒステリー的な問いが真に求めていることであるからだ。ここでヤンキー的な誠実さ=自分の真意を告げることは、恋愛に対して負に働く。そのことを我々はよく知っている。
 にも関わらず我々は、恋愛をする以上、相手方に対して真意を述べたくなるときがある。パフォーマンスとしてではなく、真意を。なぜなら、他の人には見せない秘密を共有し合う親密性にこそ、恋愛の享楽があるからである。
 我々はメガネとヤンキーに引き裂かれている。この矛盾、不可能性の中で、恋愛していくほかない。
 あるいは逆の側、スミレの側から考えることもできる。
 私は相手方に質問する。私が期待すること=言って欲しいことと、相手方の真意とが、一致するとは限らない。そして相手方の回答に対しては、常に、ある疑惑に、とらわれる。それはどっち?—事実記述なのか、パフォーマンスなのか。この終わりなき疑惑は、永遠に解消されることはない。恋人同士の会話を思い浮かべてみよう。
 「私のこと、好き?」「好きだよ」「本当に好き?」「本当に好きだよ」「信じられない、どうして私が好きなの?」「えっ、どうしてって?」「たとえば、私のどこが好き?」「君の◯◯なところが、好きだよ」「じゃあ、私が◯◯じゃなかったら、好きじゃなくなるの?」「そんなことはない、仮にあなたが××だったとしても、あなたのことが好きだよ」
 この会話は永遠に続く。なぜなら、本質的に、相手が「本当に好きなのか」どうかは、決定不可能であるからだ。それは相手方の戦略かもしれない。パフォーマンスかもしれない。しかし私もパフォーマンスをすることから逃れられないのであり、むしろ相互のパフォーマンスによって駆動される恋愛の享楽がそこにはあるからだ。また、「◯◯」という性質をめぐっても考えてみよう。これは相互的に決定不可能である。回答側の「君の◯◯なところが好き」という回答は、本当かどうか決定できない。同様に、本当に相手方が「◯◯」であるのかどうかも、決定できない。相手方が実は、相手に気に入られるために「◯◯な私」を演じているかもしれないからである。
 本質的には、このような無意味な、疑惑の生起とパフォーマンスによる打ち消しとの間の往復にこそ、恋愛の享楽が構成される。

恋/破局は遡及的に世界を変える

 「恋する」というのは、あるひとつの事件である。それは恋するものにとって、世界が変わる瞬間である。我々は、相手方のA,B,C,D..といった個々の属性に惹かれるから、恋するのではない。恋するからこそ、A,B,C,D..といった相手の属性に、魅力を感じるのである。ここで遡及的に世界が再編成され、過去の配置が変わり、相手の個々の属性が、魅力に変わるのである。恋愛とは基本的に、「あなたがA(という魅力的な属性)を持つから、私はあなたを愛している」という形式をとらない。「あなたがB(という悪い属性)を持っているにもかかわらず、私はあなたを愛している」という形式をとる。

「君を愛している。なぜなら君の鼻は美しい/脚が魅力的だ」云々というのはア・プリオリに間違っている。愛は宗教信仰と同じだ。ポジティヴな属性が魅力的だから愛するのではなく、反対に、愛しているからこそ、愛の視線で対象を見ることになり、ポジティヴな属性が魅力的に見えるのである。
スラヴォイ・ジジェク『事件!』p.142

 恋の破局の場合は、逆の事態が起きる。相手の性質がすべて、「悪かったであろうもの」に変化する。

偶然的過程がもたらす結果は必然性の出現である。事物は遡及的に必然「だったであろう」ということになる。
スラヴォイ・ジジェク『事件!』p.155

 われわれはここで、主人のシニフィアンの変化力といわゆる遂行的(performatif 発話行為)とを混同しないように留意しなくてはいけない。主人のシニフィアンの介入は事実確認(constatif)の形をとる。つまりすでに存在している何かについて事後に語るという形をとる。ただしその発話は遡及的にすべてを変化させる。嫌悪の正しい表現は、「どんなにあなたのことが嫌いか、いまわかった」ではなく、「どんなにあなたのことがずっと嫌いだったか、いまわかった」である。後者だけが過去そのものを取り消す。
スラヴォイ・ジジェク『事件!』p.159

 破局の瞬間、相手方の行為はすべて、ネガティヴだったものに変わる。
「愛してるなんて言ってたことも結局はすべて、カラダ目的だったんでしょう?」
「愛してるなんて言ってたことも結局はすべて、オカネ目的だったんでしょう?」
 メガネはラストシーンで、「これは恋愛競争ゲームだった」と宣言する。これは、破局の瞬間にスミレは、彼のすべての歴史を「すべてはアソビであっただろう」ものとして構成する、ということの隠喩である。女性獲得ゲームを通した同性間でのホモソーシャルな紐帯(女自慢)こそ、彼の本質であっただろうという、遡及的な構成。
 スミレによるラストシーンの目撃は、誰もが破局時に遭遇する、本質的な体験である。

スミレの幻覚症状

 いうまでもなく、メガネとヤンキーのラストシーンでの会話は、スミレによる幻覚である。彼女は、恋愛をめぐる終わりのない疑惑を、遠くで会話する二人の口の動きに、投影し、これが幻聴として聞こえたのである(そうでないとしたら、本作はその普遍性を失い、ヤリチンをめぐるただの悲劇でしかないものになってしまう)。メガネが「遠くからあの子、こっち見てるけど、聞こえてるんじゃないかなー」という台詞が、示唆的である。その台詞は、その声が、本来は遠過ぎて聞こえないはずの声であるということ、スミレ自身が投影した幻聴である可能性を、示唆している。もちろん、そもそもスミレがヘッドホンを持ち歩くのは、幻聴としての他者達の声が、つねに彼女をつきまとうからであった。

スミレは何がいけなかったのか

 スミレは、現前する他者の後ろ側に他者の「本質」を見出すという、古典的な主体理解にしたがって生きていた。そのため、キャラ化されフラット化されたスマホ世代の主体が支配する現代の社会環境に、適応できていなかった。これが、彼女の疾患を引き起こしたのである。
 具体的に、単純化した例をあげよう。スマホアプリ「LINE」を経由して相手から送られてくる楽しいメッセージの記号を、健常者ならば記号の意味そのままに受け取る。「また遊ぼうね(^_^)」というメッセージを、好意の微笑みとして受け取る。しかしスミレは違う。顔文字(^_^)の向こう側で、具体的な送り手が無表情で親指をスライドさせている姿を想像し、それこそが相手方の本質であると思いなす。それは、彼女が他者の「表面」の向こう側に、その他者の「真理」を配置しているからである。この配置関係は、現代一般的である表面的主体の概念にそぐわない。このような新しい主体を、批評家・東浩紀は、古典的主体理解である「近代的主体」に対して、「インターフェイス的主体(ポストモダンの主体)」と呼ぶ。

 インターフェイス的主体、言い換えればポストモダンの主体は、スクリーンをたえずイメージとシンボルとに二重化している。同じ二重化をかつての近代的主体は、スクリーン(見えるもの)とその背後(見えないもの)の弁証法によって組織していた。
 (中略)
 かつてはイメージは見え、シンボルは見えなかった。つまりそこでは、見えるものはあくまで表象の世界(見せかけ)にすぎず、その背後に信憑された見えない象徴秩序(真理)が主体間のコミュニケーションを保証していた。対していまや、イメージとシンボルとはともにスクリーンの上に「見えて」いる。20世紀後半のポストモダンの主体は、その全面的可視性、ポストモダンをめぐる言説の中でより一般的な表現を使うならば、その全面的表層性(すべてはスクリーンの上にある)の中でこそ主体性を設立しなければならない。そこではもはや、主体を主体たらしめる二重化のメカニズムは、「見えるもの」と「見えないもの」の区別に沿って組織化することはできない。
東浩紀サイバースペースはなぜそう呼ばれるか+』(河出文庫)p.96

 周囲の学生がポストモダンに対応した主体を習得しているにも関わらず、近代的主体観にとらわれた彼女は、他者の「真理」を、他者とのあらゆるコミュニケーションの「裏側」に配置し、つねに「見えないもの」の影に怯えなくてはいけなかった。これこそスミレの疾患の本質である。

スミレはどうすればいいのか

 したがって、スミレの疾患を治療に導くための解決策は次の通りである。このインターフェイス的な主体が一般化した社会に順応すること、近代的主体観を捨ててインターフェイス的な主体を獲得することである。
 「見かけ」の背後に、他者の何らかの見えない真理が隠されているのではない。「LINE」上の記号的な顔文字が相手方の顔そのものであるように、相手方の「見かけ」は、恋において本質的である。
 そのことを理解すれば、スミレは絶えず「騙されること」に怯える強迫観念に、とらわれる必要はない。LINEの顔文字が顔文字そのものであることを信じることさえできれば、そのこと自体に騙されることは、決してないのである。
 精神分析学分析者スラヴォイ・ジジェクの言葉を最後に引用し、本論を終えよう。

キェルケゴールの言葉を引くと、「愛はすべてを信じる。だがけっして騙されることがない」。これは「何も信じないにもかかわらず、それでも騙される」ということの反対である。いっさい他者を信じない者は、逆説的に、まさにそのシニカルな不信のせいで、最も根源的な自己欺瞞の犠牲になる。ラカンならば「騙されない者は彷徨う」と言うだろう。不信感の塊のような人は、どんなに儚く、脆弱で、つかみ所がなくとも、外見には真実性があることを見落としている。信じる者は外見を、そして外見「を通して輝いている」魔法の次元を信じる。彼は他者の中に<善>を見る。他者自身がそれに気付いていなくても。ここではもはや外見と真実とは対立していない。
スラヴォイ・ジジェク『事件!』p.99

いくつかの付記

改修案:前半、メガネの怪しい目つき

 前半、早い段階でメガネの目つきが怪しくなってゆく。そのためラストシーンの衝撃が薄まってしまう。観客に対してメガネは、メガネを観客自身として、観客自身の共感すべき身体として感取されるように、自身を開示しなければならない。なぜなら、メガネは恋愛をめぐる戦略性を体現しており、我々が恋するとき、相手方に対して表すパフォーマンスそのものであるからだ。もちろんメガネのパフォーマンスというのは屈折していて、「いいように見られようとする」という戦略をとっていないかのように振る舞う巧妙な戦略性であり(事実記述に徹しているかのように粉飾した、行為遂行であり)、我々が日常的に行っているところのものだ(化粧すること、奇麗な服を着ること、笑顔で挨拶すること、相手を気持ちよくさせるために相手の言語ゲームの側に合わせて自分の言動を構築すること等、の、素朴さを装った、許容される意図的な戦略)。だから演出は、次のように演技指導すべきだ。
 「確かにあなたは後半、それが悪質な恋愛ゲームであることを自ら宣言するわけで、それによって遡及的にあなたの存在の意味は変わるのだけれども、その遡及的な世界の再編成に際して観客が自身の戦略性を自覚させられて不気味さを感じるということにこの劇のダイナミクスがあるわけだから、観客はその瞬間まで、メガネであるあなたを自分自身として感取している必要があり、したがって最初から悪意をほのめかしてはいけない。だから、観客の共感と、ラストシーンでの悪意的な戦略性を、両立させるような存在に、あなたはならなくてはいけない。恋愛ゲームのパフォーマンスそれ自体をヤリチンとして楽しむことと、普通の人が恋愛に没入して欺瞞的に戦略性を発揮することとの違いが、観客から分からないような仕方で・観客にとって同一であるかのように見える仕方で、スミレを眼差さなければならない」

スクリーンを利用したスミレの内面描写

 背景のスクリーン上に、スミレの内面が直接的に文字として表現される。これは、インターフェイス的主体(表層がすべての主体)をテーマにした本作に合った演出である。普通の劇団であれば、スクリーンを利用せず、内面告白を、舞台前面での独白や、抽象的または詩的な身体表現で行うだろう。劇的な仮想空間として。例えば、近代的主体(見えるものの奥に見えない真実の主体がある)を一貫して提示する古典的な手法の幻灯劇場なら、字義通りに捉えると良くわからないが何となくそれっぽい感じの印象を与える長台詞と、それっぽい表情をテクニカルに駆使して立体性を浮かび上がらせ、その奥の真理を観客に想像させるような演出をするだろう(観客はここで、その表層の奥に何か「深い」ものがあるという印象を受ける)。しかし、本作のスミレの内面描写は、徹底して平面的で記号的で、直接的である。これは普通であれば「アニメ的・マンガ的」で薄っぺらく、舞台芸術に合わないと一蹴されるかもしれないが、先述したように、インターフェイス的世界が支配するなかでそれについていけない近代的主体の苦悩を描いた物語であるから、その形式は物語の内容に一致している。

結論

 ヘーゲルが「精神は骨である」と言った言葉をスミレはよく理解する必要がある。幻覚を引き起こすまで他者の顔の向こう側に思いを馳せ、疑心暗鬼になる必要は無い。あなたの真実は、まさに相手方の表面、あなたに見えたものの中にあるからだ。相手方の表情・言動の奥には何があるか? それは骨である。精神とは骨、つまりは空虚なものなのである。顔の奥になにか恐ろしい真実などは存在しない。そしてまた、恋はいずれ破局を迎える儚いものなのである。いずれは、「彼はただのヤリチンだったであろう」として遡及的な世界改変が生じることになるであろう。しかしこれは恋愛の根本的失敗ではない。恋愛の必然的帰結である。「愛はすべてを信じる。だがけっして騙されることがない」。あなたから見える範囲である相手方の表層に、相手方の真理を見出すべきである。その奥には空虚な骨しかないのだから、怯える必要は無い。その限りにおいてあなたは、決して騙されない。
 上記は極端な言い方に聞こえるかもしれない。現実的には、近づくべきではない悪質なヤリチンメガネが、多数存在するだろう。もしそれに惹かれることを全肯定してしまうと、だめんずうぉ〜か〜となってメンヘラ的な人生を送ることになるということは、確かであり、避けるべきである。しかしながら、常に過剰に、騙されること=表層の裏側が表層と対立的であるかもしれないこと、に疑心暗鬼になって、幻覚症状を引き起こすまで病的になるスミレが、今後の人生を幸せに過ごすためには、もう少し、健常者の側に、近づく必要がある。そのために、表層こそ真理であるというインターフェイス的主体の性質を、理解するべきである。それが結論である。

他団体との対比

雪のビ熱『きかざって女子!』との対比

 雪のビ熱『きかざって女子!』は、内的な対立(同性間の不和)を外的な他者(オトコ)に投影し、オトコがあくまで幻想であることを徹底的に自覚することによって、女子同士連帯し、楽しく生きようという物語である。ラカン的に言えば、彼女たちは「幻想を突き抜けている」。幻想の奥に何があるかを直視すること(幻想の奥には何もない、骨しかない)ということを強く自覚し、それでもなお、あえて「オトコ」という安全な幻想を、女子会のネタとして消費する。そんな彼女たちの姿には、スミレが見習うべき点がたくさんあるだろう。

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*1:ここで「ヒステリー的」という形容は、つまりは「人間的」ということである