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ローカルウォッチ(麦)

地域を観察した記録です

無意味で幸せな単純定型労働の生 - 劇団西一風『ピントフズ』(Cブロック)| 京都学生演劇祭2016レポート #KSTF2016

劇団西一風『ピントフズ』(Cブロック)| 京都学生演劇祭2016

あらすじ

 ある若者が工場で勤務初日をむかえる。自己紹介の後、軽作業の説明を受ける。それは、ライン上を流れる小箱に、霧を吹き付ける仕事だった。その手動式霧吹き器は「ピントフ」と呼ばれている。ピントフをめぐる先輩労働者達との会話を通して、新人には分からない奇妙な習慣やルール、言語ゲームが舞台上で展開される。新人はその意味不明さにとまどう。ある時彼は、倉庫の裏で巨大な機械式噴霧器を見つける。これぞとばかりに巨大機械を取り出して先輩労働者達に見せつけるが、誰も反応しようとしない。皆、彼を無視して作業を続ける。そんな中、ラインの上流から、小箱ではなく、小さな霧吹き器であるピントフそのものが流れてくる。混乱する中、一人の先輩労働者がピントフをライン上流に投げつけると、爆発が起こり、みんな吹き飛ぶ。

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ピントフズ=小さな霧吹き器たち

解説

新入りには分からない謎の習慣

 新しい職場・バイト先に配属となった者ならば一度は経験するだろう。当の場でのみ通用する、理解不能な謎の習慣が、そこにはある。当初その意味や効用を考えるが、やがてルールに慣れれば、それも気にならなくなる。なぜならその頃にはすでに、身体がゲームの一部となってこれを行っているからだ。したがってすでに・つねにそのゲームに慣れた先輩労働者たちは何ら疑問を抱かず、自然にこれを行う。しかし新人にとってはこの限りではない。彼ら/彼女ら先輩の振舞い・言動が、逐一不気味で理解不能なもの、無意味なこだわりのように見える。先輩労働者たちは、ピントフの形や種類にこだわる。新入りにはその区別がつかない。ピントフの利用方法の詳細にこだわる。新入りはその違いに意味を見出せない。そして彼らはピントフを利用した娯楽を語る。なぜピントフを利用してまで、勤務時間外を過ごさなければならないのか、新入りにはわからない。そして彼らは入れ替わり立ち代わり、「ピントフ、どうですか?」と、新入りに質問する。新入りはその質問に戸惑う。なぜなら、その問いによって駆動される言語ゲームの運用方法を、彼は知らないからだ。
 このような経験は、労働経験のある者ならば誰でも受ける当惑のひとつである。

世界規模で分業が進む複雑な社会

 一見、それらピントフをめぐるゲームは、単にそれまでその世界を知らなかった新入りにとって無意味なだけで、具体的にその意味が知識として与えられれば、理解可能な有用性をもつように思われる。しかし、本当にそうだろうか? いま社会は資本主義が国境を越え拡大し、世界規模の分業体制が成立しているのであって、その中で個々の主体は単にそのいち部分に過ぎず、全体を直接知ることができない。仮に、それを読めば全体の意味構造を一挙に理解できるところの情報があったとして、一個人がその全体を把握するには複雑・膨大過ぎて、これが不可能である。したがって、部分的にしか参入し得ない生産労働の一端では、本質的にその意味は把握不可能である。これは、舞台上で繰り広げられるピントフに関するこだわりが、本質的に無意味であることを意味する。もしも、当の先輩の小さなこだわりが、次のラインへ搬出するところに目的があり、この目的のための効率的な手段のひとつだったとしても、問題は変わらない。なぜなら、手段は目的に対して無限に考案可能であり、その中で最も効率的なものを労働現場は選ぶのであるが、しかしながら目的が当該部署のラインの範域を超える以上、その作業の真の目的が不明であり、当該手段が最終目的に対して最も効率的であるかどうか、決定不能であるからである。そもそもピントフを吹き付ける小箱の中にいったい何が入っているのか、部署内の誰もが知らない。それがどこへ向かい、どのように消費されるのか、誰も知らない。そして、個々の主体が当該作業の目的を知らないことは、資本主義的分業体制にとって本質的である。もしそれが仮にBtoC企業の商品(Business-to-Consumer、消費者に直接届けられる商品)であったとしても、問題は変わらない。なぜなら消費者が当の商品を消費することの目的が不明だからである。彼ら消費者は当該商品を消費し、次の日の労働に備えているのかもしれないが、しかし次の日の労働は、商品が市場を介する以上、生産者に知るすべがない。中国大陸の工場労働者にとって、工場内で生産する阪神タイガーズ応援グッズの真の目的が不明なように、野菜を搬送する農家が、そしてそれを消費者に売るサービス労働者が、その野菜の消費によって何の目的が達せられるのかは理解できない。もちろん野菜は匿名の誰かの栄養になるのだろうが、その誰かの栄養が何のためのもので、何の生産目的をもって蓄積されているのか、本質的に把握不可能である。

文脈自由労働の享楽

 したがって、ラストシーンで機械式噴霧器を手にした新入りは二重の意味で間違っている。
 彼が間違っているのは、第一に、当の機械式噴霧器が商品の目的に対して有効であると思い込んでいる点である。もしかしたら機械式噴霧器の強度は、商品の目的に対して非効率な影響を与えるかもしれない(例えば、商品が壊れるかもしれない)。目的が本質的に不明である以上、当の手段が効率的かどうかは決定できないからである。したがって労働者は、これまでうまくいってきたという過去の実績をもとに、慣習を反復するしかない。慣習からの逸脱は、何を引き起こすか分からないからである(その目的性の宛先が無限遠方に延長されるが故に、影響範囲が特定できない)。例えばこれがHONDA自動車の部品であると考えよう。噴霧器の変更は、部品の形態を変え、大事故を巻き起こして死者を出し、倒産を招きうるだろう(実際、ラストシーンでピントフは爆発する)。
 彼が間違っているのは、第二に、それら慣習が労働者たちにとって独自の享楽を構成しているということを知らない点である。当の労働が本質的に無意味であることは、個々の主体にピントフをめぐる享楽の自由を与える。全体を知らない個々の労働者は、その目的を知らないがゆえに、文脈を無視した自由な意味を、当の作業につけ加えることが可能である。その上で独自の習慣を反復し、独自の享楽を発展させ、これをめぐって会話をしているのである。その享楽を労働者から奪うということは、結果的に、労働者の意欲を落とし、非効率な結果を招く可能性がある。例えば普通、「効率的」であるという理由で、労働者のトイレ時間・食事回数を制限すれば、非効率な結果を招くだろう。費用削減のために机と椅子を安物にすれば、作業効率が落ちるだろう。したがってピントフは、機械式噴霧器に代替することはできないのである。
 舞台上のピントフと機械式噴霧器を見比べ、ピントフに「非効率性」を見る者は、間違っている。

ゴドーのいない単純定型労働者

 1991年、経済学者であるロバート・B・ライシュは、ソフト産業化(脱工業化)の進行にともない、労働者が一部の「シンボリック・アナリスト」と、その他多くの「単純定型労働者」に階層二分化すると主張した。シンボリック・アナリストとは、記号的な分析・操作を行う知識労働者である。そして単純定型労働者とは、機械に代替不可能なサービス業や単純労働を担う労働者のことである。シンボリック・アナリストは、諸々の需要を発見・創造し、また、人材・モノ・資金・情報を集め、組み合わせて供給する管理者である。単純定型労働者は、シンボリック・アナリストに配分される素材であり、定められたルーチンをくり返す。
 ピントフ工場の労働者は、単純定型労働者である。ただ観客が、ライン上を左から右へ流れる商品への視線の往復運動でしかないように、単純定型労働者は、ピントフを用いた単純な作業を反復する。そしてその行為には本質的に「目的」がない。正確に言えば、個々の行為者にとって、「大きな物語」に紐づけられるような目的性がなく、本質的に無意味である。これは「大きな物語=目的=神」を失ったわれわれの時代の生と同型的である。例えば戯曲「ゴドーを待ちながら」は、ゴドー=GOD=神を待ち続ける二人の人間がただひたすら会話するだけの作品である。また、カフカ「城」は、城に入るという大目的をかかげるが城には決して入れない男が、様々な障害に翻弄される物語である。両者に共通するのは、目的としての神や、目的としての城があるという点である。そして両者と、本作『ピントフズ』との相違点は、後者に目的がない点である。単純定型労働者はただひたすら労働する。労働の目的である商品のことをよく知らないし、それによって得られる賃金の目的=「生きる目的」のことも知らない。目の前の生産手段=ピントフを活用した娯楽を想像することで時間をつぶすしかない。「城」や「神」といった大きな物語が社会に共有されていた時代とは違い、無目的な毎日の中に楽しみを見出して、コンサマトリーな享楽を得るしかない。だからといってそのような日々が空虚であるとは決して言えない。現に、ピントフ労働者である彼ら彼女らは、ちょっと幸せそうに見える。

ピントフ工場の人たちは一発逆転を目指さない

 鈴木健介は『カーニヴァル化する社会』の中で、自己責任論が支配する現代社会においてシンボリック・アナリストと単純定型労働者が抱く2種の異なった強迫観念について語った。一方でシンボリック・アナリストは、自身の社会的地位が努力の結果であると信じるが故に、さらなる努力(自己投資)の必要性に駆られ余暇を自己投資に費やすところの、キャリアポルノ的強迫観念に囚われている。他方で単純定型労働者は、自身の変えがたい境遇から離脱するための出口として「ここではないどこか」を夢想し、一発逆転する夢に囚われている。例えば「留学」「起業」「世界一周旅行」などである。世界一周旅行ツアーの大型船「ピースボート」を取材した古市憲寿『希望難民ご一行様』によれば、ピースボートに乗る若者は、2種類のタイプに別れる。第一のタイプは技術者・看護師など手に職をもつ正規雇用労働者であり、転職の合間に空いた期間を余暇として活用し、舟に乗り込むグループ(手に職があって転職が比較的容易であるという経済的条件によって乗船が可能なグループ)。第二はフリーター・非正規であり、漠然とした「価値観の大転換」や「自分を変えるため」という目的のもと乗船するグループ。
 後者の単純定型労働者は、いまだ「大きな物語」を信じる若者である。別言すれば、一発逆転としての神の到来を待ち続ける人間であり、大きな目的性、大文字の希望をいまだ信じる者である。
 他方、ピントフ工場の人々は、「一発逆転」を一切抱かない。ただ淡々と日々の労働享楽に時間を費やし、終わりなき日常を生きる単純定型労働者である。これは、大きな物語が失われ、資本主義のグローバル化によって不透明な分業体制下におかれた、ポストモダン社会をいきる我々の生以外のなんであろうか。

誰もがピントフ工場の人間である

 ところでシンボリック・アナリスト/単純定型労働者の弁別を通して、ピントフ工場的でない別の生き方、すなわちシンボリック・アナリスト的な生き方が実在するだろうと、想像されるかもしれない。しかしそれは錯覚である。前述したように、我々は皆、本質的に目的の不明な労働に勤しんでいる単純定型労働者である。もし仮にシンボリック・アナリスト的な労働者がいるとすれば、それは、「自身をシンボリック・アナリストであると信じている単純定型労働者」、すなわち「世界の目的のために世界を操っていると信じている単純定型労働者」である。あるいは、「ここではないどこかに、シンボリック・アナリスト的な生き方があるかもしれないと一発逆転を夢想する単純定型労働者」である。したがって、ピントフ工場の「非効率性」を笑う者は、いまだ真実を知らない者達である。「効率性」とは、「ここではないどこか」という<宛先=目的>を前提としてのみ成立可能な概念装置であるのだが、しかし目的が成立不可能であるがゆえに、効率性は成立しない、常に決定不能の状態におかれている。そのことを知らない者のみが、効率性の神話をいまだ有効であると思い込むことができるのであり、そしてそれは錯覚である。
 人は、大きな目的のない世界の中で生きているのである。もし仮に何らかの目的のために生きていると思い込んでいたとしても、それは、単に当の本人がそう思い込んでいるだけで、いわば新興宗教のようなものである。すなわちそれは、社会に共有されない、小さな物語であるに過ぎない。これを、本質的に有意味的な目的であると錯覚すると、社会との軋轢が生じる。具体的に言おう。社会のポストモダン化・価値相対化の果てに、小さな共同体で原理主義を生み出したオウム真理教のように、自身の小さな物語を全体の目的であると錯覚し、無理にこれを遂行しようとすると、社会との犯罪的対立が生じてしまう。
 その意味で、新入りはいまだ現代社会を知らない、未熟な若者である。逆にピントフ工場の労働者達は、ポストモダン社会に適応した健康的なポストモダン人間である。

ピントフの宛先

 ラストシーンは壮絶である。
 新入りが、あたかもそれによって目的の国が実現するかのような傲慢さで機械式噴霧器の長い棒を頭上に掲げていたところ、ラインの上流から小箱ではなく、ピントフが流れてくる。これは、ピントフを用いて我々が生産していたのが、ピントフ自身であることを意味する。すなわち、我々は我々の労働自身を産み出すために、労働していたのだ。これこそ現代社会の真実にほかならない。
 別言すれば、我々を外部から規定する神的な視線は存在しない。資本主義が、外部との差異を内部に(剰余価値として)回収することによって駆動するシステムである以上、外在的な領域は存在しなくなり、我々の生の目的は我々に対して内在するようになるのだ。
 先輩労働者は、ピントフ自身が流れてくるライン上流に向かって、自身の手にするピントフを放り投げる。その際、彼は「GO!」と叫ぶ。「GO」とは、先輩労働者が考案したゲーム「ピントフGO」のことであり、これは「ポケモンGO」の隠喩である(最近流行りである、京都の大企業NINTENDOのスマホゲーム)。また「ポケモン」とはポケット・モンスターのことであり、あなたのポケットの中のモンスター、すなわち勃起したペニスにほかならない。ピントフとは、その響きの猥褻さから容易に連想されるように、男性器を意味していたのだ(ピン・トフは、チン・ポコと同じリズムで発音されることに注意しよう)。ピントフの享楽とは射精のことであって、畢竟するに我々は我々自身を生産するために射精しているのであり、その目的は本質的に無意味である(「未来の子どもたちのために」という目的性は現代において空虚に響く。未来の子どもたちの生が我々の生と同様に本質的に無意味である以上は、問題の先送りでしかないからだ)。新入りは、誤りを犯す。新入りは、ピントフを片手に日々シュッシュと射精に励む幸福な先輩達に対して、効率性という名の幻想を提示し、人生の目的の存在を示唆した。この新入りの行為は、オウム真理教的な狂気である。したがって先輩労働者は怒りの射精で、これを打ち消し、爆発をもって応えなくてはならなかったのだ。別言すれば、もし彼らがそこで怒らず、機械式噴霧器を直視していたら、彼らはオウム真理教になっていたかもしれない。つまり、実はこう言える。彼らは厳密には、いまだ完全には単純定型労働者になりきれていない、と。彼らはいまだ、神なき時代に適応しきれていない、発展途上にある未成熟な単純定型労働者であった、と。つまり、我々にはまだ脆弱な部分があるということである。
 我々がオウム真理教にならず、終わりなき日常を生きるためには、自身の射精の本質的な無意味さに直面し、目的のない単なる享楽として生きているということ、これを強く自覚するしかない。つまり、機械式噴霧器を直視しても、冷静に笑って対処できるだけの勇気が必要であるということ、これである。

改修案

ゴドーの導入

 ゴドーなき時代の生き方の物語であるということが観客に分かってからは、同じような無意味な会話が続き、少しだけ退屈に、長く感じた。今回、先輩労働者が皆、単純定型労働者としての地位に満足しているがゆえ、対立軸が先輩と新入りのみになっていたが、これにもう一本対立軸を付け加えてもよかったのではないかと考える。具体的には、シンボリック・アナリストを未だ夢想する者と、そうでない先輩労働者との対立を加えても、45分に収めることができたのではないか。例えば「英語ができる」外国人労働者の話がちょっとだけ出てきたが、これを受けて「英語」を通して一発逆転しようとする日本人労働者を配置していいかもしれない。「英語」は、古市憲寿『希望難民ご一行様』が明らかにしたように、単純定型労働者が一発逆転のために語る常套句の一つである。そうすると、旧来の人間、すなわち、ゴドーを待つ者(シンボリック・アナリストになれるかもしれないという幻想を捨てきれない者)と、全くゴドーを必要としない現代的な人間との対立も見えて、よりかつての社会との差異が強調されたのではないか。もちろん、そのような神的な夢は幻想であるのだから、直後にはっきり打ち消されなくてはならない。例えば、「英語なんてできても、欧米の人は子どもでも英語できるわけだから、意味ないよ。欧米の吉野家で働けるだけだよ」と、外国人労働者は即座に言わなければならない。

他の劇団との対比

Cブロック:遊自由不断、『花満たし』との比較

 遊自由不断、『花満たし』は、ピントフの目的が不明であり、ピントフが本質的に無意味であることに気付いたことを表す物語である。したがって、『花満たし』は、『ピントフズ』に論理的に先行する物語である。『花満たし』の絶望を暫定的に否定することによってのみ、『ピントフズ』が成立可能であるからだ。

Bブロック:雪のビ熱『きかざって女子!』との比較

 雪のビ熱『きかざって女子!』は、内的対立を外的対立(性的対立)に転嫁し、異性(彼氏・結婚)という幻想を維持することによって同質的共同体を維持し、なんとなく楽しい毎日を過ごそうという物語である。ゴドーなき時代に、いかに自己への配慮を構成して生きるかという点において、射精集団であるところのピントフズと同じテーマの物語である。『きかざって女子!』が、機械式噴霧器の幻想を「あえて」維持することによって社会を維持するのに対して、ピントフズにとって機械式噴霧器はいまだ見てはいけないタブーである。タブーをあえて直視すること、すなわち幻想を幻想であるとして知っておきながら、あえて幻想を追い求める点において、『きかざって女子!』の方が一歩進んでいると、一見いえよう*1。しかしながら、「あえて」であるところの「アイロニカルな没入」*2が、いつでもベタな「ガチ」に転換しうるところに、危険性がある(ネタがベタになる問題。例えばネトウヨ。そもそもオウム真理教が、ロスジェネ世代のアニメに強く影響されていた点を思い出そう。オウムは、ネタとして始めたものがベタになる現象の極北である)。そのため、一概に『きかざって女子!』が正解とも言えない。我々は『ピントフズ』と『きかざって女子』のあいだを往復することによって、なんとか倫理を保つしかないのかもしれない。

追記

ラストシーンに関する訂正

 ラストシーンの爆発は、単純定型労働を徹底できない中途半端な先輩労働者達の表現であると書いた。
 しかし、事態はむしろ逆である。単純定型労働を徹底するが故に、我々は爆発したのだ。説明しよう。
 資本主義的分業体制下においては、単純定型労働者は労働の目的を知らない。これは家内制手工業のような、生産者が生産手段(例えばピントフ)を直接所有し、また、生産される商品=目的(小箱の中身)を直接知っている制度とは、異なる。そのために、単純定型労働者は勝手な思い込みで生産方式を変えてはいけなかった(目的に対して効率的かどうかは、全体を見渡せない末端労働者には決定不能なため)。だから、ピントフを機械式噴霧器に代替してはいけなかったのだった。しかし、資本主義的分業体制下では、市場の見えない仕組みによって、効率性が自働的に実現される。その結果、非効率な現場は、消滅させられる。個々の労働現場は、自ら生産方式を選択することができないが、しかしながら市場は最も効率的な生産方式を勝手に選択する。つまり、こういうことだ。新入りが機械式噴霧器の存在を示唆した時点で、パラレルワールドが発現し、「機械式噴霧器を利用した、より効率的な工場」が、別次元に成立した。その結果、手動式の霧吹き器で労働する工場は不必要となり、瞬間的に「存在しなかったこと」になったのだ。「GO!」を叫びながら射精する直前の、先輩労働者達の不気味な表情を思い起こすとよい。それらはまさに、「知られてはいけない世界」が発現する瞬間に居合わせた恐怖であり、そのことによって彼らの生きた痕跡が抹消される瞬間である。ピントフズのメンバーは、うすうす知っていたのだ。知っていながら、これまで通り労働するしかなかったのだ。なぜなら、効率性に関する決定不能性は変わらないからである。もちろん、新入りが勝手に機械式噴霧器を使用しようとしたのが間違っているということにも、変わりはない。この不透明な世界の中で、決定不能であるにも関わらず、あたかも決定可能な状況の中にいるかのように見なされ、そして常に消滅の危機にさらされているということ、これこそ資本主義の恐怖である。
 資本主義体制下において、「外部」は存在しない。しかし、外部が存在しないのは、まさに「存在しないことにされてしまった」世界があることによってである。それは市場から「非効率」認定されてしまった個々の工場である。射精工場「ピントフズ」とは、我々の世界が成立するために消滅してしまった、もう一つの我々である。

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*1:これはラカンの言う「幻想を突き抜けること」に相当する。

*2:虚構が虚構であると分かってて全力投球すること。大澤真幸ナショナリズムの由来』参照。