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弱いつながりを生きる幸せ|『まちがいだらけの手紙』劇団紫(佛教大学)脚本:岡田ゆき

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劇団紫(佛教大学) 第71回定期公演 
「まちがいだらけの手紙」(作:岡田ゆき)

目次

あらすじ

 かつて、作家を志す兄と、画家を志す妹がいた。兄の描いた小説の装丁を、妹がデザインする—そんな約束をした子どもたちも、いつの間にか大人になっていた。夢は果たされず、兄は作家になり、妹は一人で暮らし、交流はなくなっていた。ある日、一人で絵を描く妹の元に、手紙が届く。手紙は、ある作家に向けた読者からのファンレターであった。当の読者は、小説内に書かれた住所を、作家の住所であると思い込み、手紙を送ってみたとのことであった。妹は作家の振りをして、当の手紙に返送する。読者との文通が開始される。読者を介して妹の心情が変化し、その結果、妹と兄は、手紙上で再会する。

解説

血縁間の強いつながり

 かつての地域共同体が失われ、都市・郊外的な「自由」を手にすることと引き換えに、「孤独・寂しさ」という檻に閉じ込められた我々は、手元にある特定の関係性を、強迫的に強化する傾向をもつようになった。夫婦間は相互依存や相互監視の度合いをつよめて共依存の病理を抱え、可処分所得における養育費の比重が高まって子は親の治外法権と化し、強靭なつながりが成立しなければ「赤の他人」としてこれを切り捨てる、他者に関する「全か無か思考」が蔓延した。

趣味共同体の強いつながり

 SNSの世界は、ユーザの関心ごとにクラスタ分けされ、自身の関心に近い情報のみがフォローされ、そこから得た情報で再帰的に同じ自己を強化してゆく「自分ループ」に閉じ込められている。そこでは偶然性が排除されている。

親密な他者か/赤の他人か

 寂しさによって強化への強迫を孕んだ、他者との関係性。
 クラスタ分けされ自身に都合の良い情報のみが与えられ、同じクラスタ内で同じ自己を反復強化していく必然性。
 そういった世界では、他者に対する期待が、以下の形式をとる。

「あの人が私にとって大切な◯◯である限りは、あの人は□□であるべきだ」

 そうでない限りにおいては、「あの人」は「赤の他人」となり、自己とは切り離される。

兄との強いつながり

 本作において、幼少期の兄との約束にこだわる妹は、こだわるがゆえ、そうではない現在における兄との関係性を肯定できず、兄の存在を否認する。兄を全くの他人として、己の親密な世界には属さない存在として、自身から切り離す。

 それは妹が、強固な必然性に支配された「強いつながり」を理想視するあまり、そうではない関係に価値を見出すことができないからである。

誤配から始まる偶然性

 突然、妹に届いた手紙は、端的に言って誤配である。それは作家である兄に宛てた手紙であり、妹の必然性の世界にとっては、ノイズでしかない。

 しかしそのような偶然性をきっかけに、妹の人生に劇的な変化が生じることになる。

偶然性から始まる新しい自己

 偶然性は、新しい自己を構成する。

 これまで妹が抱いていた、妹にとって唯一受け入れることのできる必然性・強いつながりの世界—例えば兄の本を自身が装丁し、兄とともに暮らすが、可能な唯一のあり方ではないことに、妹は気づく。

 このような偶然的な文通によっても成り立つ関係性があり得ることを知った妹は、つながりの強固さへの拘泥を捨てる。弱いつながりの中にも、幸せな時間が宿り得ることを、知る。兄との関係性が「弱いつながり」でも可能であることに、妹は気付くのである。

兄へ手紙を送る妹

 妹は兄へ手紙を送る。おそらく今後、妹が兄とともに暮らすことも、あるいは兄の装丁を妹が実現することも、ないだろう。にも関わらず、兄との幸せなつながりを構成できるということを、妹は信じる。

 そのような関係性は、かつてのものとは全く異なったものだ。

 「弱いつながり」の中で生きる幸せな関係性である。それは必然的で強固な「強いつながり」とは一線を画す。

 なぜなら手紙とは、つねに誤配の可能性を孕んでいるのだから。

 妹は、かつての必然性的なつながりに執着する必要性を、もう持たない。

 誤配=偶然性を孕んだ「弱いつながり」の中で、幸せを実現できるということ、このことに気付いたのだから。

LINEに支配された現代人への癒し

 LINEとは、人と人とを結びつけるものであるが、ひとたびこれが反復され常態化すると、人はその檻に閉じ込められ、常につながっていないと許されないものとして、人との関係性を拘束するようになる。

 人が自らの幸せのために生み出したはずのシステムが、人の幸せを拘束的に規定するのである。

 本作は、そのような息苦しい「強いつながり」に支配されたLINE時代の我々に、癒しを与える。

 その癒しとは、手紙の誤配=偶然性を許容すること、弱いつながりでも可能な幸せの形があり得ること、これを我々が受け入れることによって可能なところのものである。

役者について付記

自己身体イメージへの強迫

 いま我々は鏡に包囲されている。鏡とは、カジュアルにいつでもどこでも撮影可能なスマホ環境であり、己の姿が即座に世界へ共有されるSNS環境のことである。

 このような世界において我々は、自身の身体に関し強迫的な自意識を抱かざるを得ない。

自立した身体の困難さ

 しかし難しいのは、身体とは自己にとって外部であることである。

 自身の知らない間に、首が突き出していたり、猫背になっていたり、不安定に頬が痙攣していたり、微笑んでいるつもりが苦く歪んでいたり、眉の皺が強過ぎたり、視線が挙動不審すぎたり、指先が変な形になっていたり、足さばきが不安定だったりする。

自立した身体を思わせる妹役

 コミュニケーション能力は、他者から見られるはじめの場所という意味で、身体のありかたに強く依存する。

 演劇をはじめるものは昔から、教室内カーストでうまく立ち振る舞う上位の人たちに対して抱く劣位者としての劣等感が、その始動の動機になると言われてきた。

 妹役の人の、安定した立ち居振る舞いや、ブレることのなく水面のように静止させることのできる感情の様態は、コミュニケーション能力の高さを、人に感じさせる。そのような身体は、あたかも、他者に卑屈になることなく、自己規範に従って生きているかのようなイメージを抱かせるからである。

 だが本作の主旨から言えば、そのような身体に我々は羨望を抱く必要はない。少なくとも舞台外の生活のなかでは。なぜなら、必然的に構成された、確固たる身体をもたなくとも、キョロキョロと不安定に揺れる実存のなかでも、幸せを実現できるのであるから。役者の身体を見ながら、そのようなことを思った。

参考文献

東浩紀『弱いつながり 検索ワードを探す旅』
弱いつながり 検索ワードを探す旅

弱いつながり 検索ワードを探す旅