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ローカルウォッチ(麦)

地域を観察した記録です

モノ化された役者 | 『ふぉれすとらしからぬふぉれすとだ』 50hours スペース・イサン 合田団地クラス

演劇 スペース・イサン 50hours

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『ふぉれすとらしからぬふぉれすとだ』 
 50hours スペース・イサン
 合田団地クラス

目次

あらすじ

 グローバル資本主義社会を生きる一人の少女が、身のうちにぽっかり空いた不全感を充たすため小劇団に所属し、役になりきることによってこれを埋めようとする。与えられた役「木」を実現するための試行錯誤のはて、ついに少女は悟り、カルト的な充足を得て初舞台を迎えたが、彼女はそこで物理的に「木」になってしまっていた。他方でカルト集団に娘を洗脳されたと思い込んだ両親は抗議の声をあげ、しかしながら娘がカルトに親和的であったように、両親もそれぞれ独自のカルト的な疾患に罹り、母は木を愛で、父は幻覚と会話をするようになる。他方で実のところ、劇団員は特にカルト的な指向性をもっていたわけではなく、なんとなく楽しい毎日を過ごせればいいのだという楽観さで、最後はポジティブに「この木なんの木きになる木」を合唱し、帰路を歩く。

解説

「木」の役を任せられた若き役者

 舞台は森林での1シーンから始まる。舞台上で言葉を交わす男女、そして屹立する「木」が「二人」。

 役者志望の若き女性がはじめて憧れの劇団で舞台に立つ、その役は「木」だった。
 森の中の一本の木として立ち続け、セリフもなく、動きもない。主演役者たちが動き回り声を行使するなかでただ立ち、「木」としての屹立を崩さない役者の卵。

 自らの肉声に権限が響くことを疑わない気分症の演出家は、具現化された自分の身体の一部に向けるかのような傲岸な寄声で主演役者たちをべた褒めするが、他方で「木」を演じる新人役者、及び同じく「木」を演じる、入団数年目の役者に対して、「なってない」こと、「木になりきれていない」ことを告げ、叱咤する。

木になること

 「木」になるとはいかなることか、真摯に問いかけ、悩む新人。
 他方で、自らが脇役であり、同じ「木」を演じ「させられる」ことに愚痴をこぼし、情熱を放棄して投げやりな眼差しで新入りを笑う、入団数年目の先輩役者。

 新人役者の中には解決しない思いが巡る。やはり「木」にはなりきれない。
 初舞台を楽しみにする両親へ、胸を張って来場を勧めることができない。

「今回は見せれない。私が自信を持って自分の役を演じることができるようになったら、そのときにはじめて観に来て欲しい」

「木の気持ちになれ」

 うまく演じることのできない若き新人女優は、演出家に相談する。どうすればうまく「木」を演じることができるのか、と。

 「“木” の気持ちになればいい」

 演出はそう言う。若き役者は混乱し、真摯な眼差しで問いかける。

 「木の..気持ち..!? ...“木” の気持ち..って何でしょうか?」

 演出は自分でも良くわかっていないのか、新人の問いを受けて戸惑い、ひとつふたつ言い訳をする。

 「“木” の気持ち...そそ、そんなの知らんよ!」

 『ガラスの仮面』が流布した前期スタニスラフスキー原理主義

「“木” を演じるんではない」
「“木” になりきるんだ」
「“木” の気持ち、そのものに成れ」

 これには元ネタがある。1976年に連載開始されてベストセラーとなり、現在も連載が続くマンガ『ガラスの仮面』ある。

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木になりきろうとする北島マヤ

 このマンガは、主人公が周囲を忘れて自己に没入しているあいだに、周囲の登場人物たちの眼差しがその姿を貫通し、主人公に対して畏れ、尊敬の念を抱くという構造がそのカタルシスの大部分をしめている。この作品で有名になったセリフ「おそろしい子...!!」とは、主人公を評価する他者の眼差しである。

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主人公=読者のナルシシズムを充たす周囲の顔たち

 主人公に同一化した読者は、本来であれば主人公自身も視ることのできない他者たちの、主人公を畏怖の眼差しで視る顔を通して、自己愛を実現する。これこそ、このマンガが、若き少年少女たちを舞台上のナルシシズムへ誘惑した最大の戦犯と呼ばれる所以である。

木として「演じる・振る舞う」先輩と、木に「なる」新人

 同じ「木」役を与えられた先輩役者は、あくまで自意識を身のうちに留保したまま木を「演じようと」する。彼は木として「振る舞おうとする」のである。

 だがしかし、別のベテラン俳優に森へ行くことを勧められた若き卵は、森林の気配そのもののなかで木に触れ、木であること、木になることの境地に達する。

 ここで、木以外の役も欲しいと願いながらいやいや木を「演じる」先輩と、木そのものに「なる」新人との対比は、『ガラスの仮面』で、役として役らしく振る舞うことと、役そのものに成ることとの対比と同型的である。『ガラスの仮面』では、後者こそ、主人公を畏怖憧憬の対象とさせ得る唯一の源泉であった。

 では、本作『ふぉれすとらしからぬふぉれすとだ』では、どうなのか?

実際に木になってしまった新人

 森林の中、スポットに照らされた新人は、自らがついに木になることの悟りへと達した旨を告げ、客席によろこびの声を響き渡らせて、舞台は暗転する。

 そして、舞台初日を迎え、明転すると、舞台上では、本作冒頭で繰り広げられた劇中劇、森林で語り合う男女の1シーンがくり返される。

 ただし、ただ一点違う点は、新人役者が「木」として立っていたはずの場所に、物理的な木が一本、置かれているところである。

f:id:nekotool:20160627140135p:plain!?

 役者の卵は「木そのもの」になってしまったのだ。
 その後は、木になってしまった新人をめぐる家族と劇団員たちの掛け合いの物語となる。

身近でお手頃なカルト空間としての「劇団」

 小劇団という特殊な空間には、カルト性・宗教性がつきまとう。むしろそれこそが劇団に求められているところのものだ。

 われわれはいま、地域の共同性が失われ、隣人を意識せずにすむ賃貸マンションや新興住宅街で暮らす「自由な」グローバル資本主義の社会を生きている。人々は、マーケットを介して生産と労働を往復しておけば人と繋がる必要もなく、生活することができる。
 そこには孤独がある。街のあちこちで、信仰や共同性の代替となる空間を、自らにぽっかりあいた不全感を充たすための器を、自己愛の源泉を、探し求めてさまようゾンビ達を見ることができるだろう。

 そこに発見されたのが「劇団」だ。市場を介した需要がない=人々に必要とされていない、にも関わらず、多忙な生活に多大な労力と時間をかけて稽古に励み、定期的に連絡して熱心にチケットを売りつけてくる演劇人たちのいくつもの顔を、小劇場関係者の親戚・友人ならばいくらでも思い浮かべることができるだろう。

 本作は、そういった小劇場劇団界隈をシニカルな笑いにかえて観客に提供するサービス精神旺盛な残酷物語である。

子を洗脳された親

 終幕後、娘が舞台上にいなかったことを不審に思い劇団員達をたずねた両親は、娘がいなかったことに誰も気付いていなかったことを知るばかりか、あなたの娘はこの木になったんではないかとふざけた態度で植木を指す劇団員たちを前に愕然とする。

 軽薄な態度に怒り狂う両親ではあるが、劇団員たちの言葉が気にかかり木を家に持ち帰る母。

「娘/息子の人生は演劇に狂わされてしまった!」
「劇団の人たちに洗脳され、心を壊されてしまった!」

 演劇をやる若き実在青年たちを子にもつ親はみなそう思っているということは、周知の事実である

「あんたの子供、なんやちゃんと働かんといつまでもフリーターしとって、え、なんやようわからん芝居のチケット売りつけてきて、いったいどうなってんの、え!」
 世間一般の常識をもった親戚たちは言ってくる。

 もちろん、劇団員達は「入場料無料」や「無料カンパ制」、「たったの千円」でチケット料金を設定し、経済的見返りを求めているわけではない。

「いやむしろ有料やけど無料でチケットあげるから観に来て!」
 と言われて観に行ったらば、なんやようわからん内容の意味不明なはなしやったわ! ということは、この界隈では日常茶飯事である。
 また、経済的見返りを求めてないとは主張しながらも、小さな世界で宗教的儀式に勤しむ劇団員たちは、きちんと社会で働いたことがないため、「機会費用」の概念を知らず、親戚・知人・友人達の機会費用を損失せしめたことに自覚がない。

 それは一般的に知られている、演劇界の現状である。
 だが他方で、本作で描かれた劇団員たちはどうであったか?

彼女の欲望が彼女を木にした

 劇団員たちは、作品のはじめから最後まで、徹底して軽薄である。
 「木になれ」「木の気持ちに」と吐いた、かの情熱的な演出家さえもそうで、ただ彼は自分のテンションの赴くまま役者を褒め、自画自賛しているだけなのだ。
 新人の若い女の子がいなくなったとしても、それが特に彼らの苦悩に結びつくわけでもない。

 訪れた家で、少女の両親の狂気を見たあとでさえ、しばらく沈黙したあと、「不謹慎よ」と言いつつも、謎のポジティブさでいつのまにか楽しく歌っているのである。

 彼らは単に、楽しいから演劇をやっているに過ぎない。

 だが他方で、彼女は違った。

 彼女は、演劇に「ガチ」を求め、そして「木」になったのだ。
 彼女には、そのような、カルト的な形式で自らの不全感を充たそうという欲望がもとからあったのだろう。そしてそのことは、彼女の母が木の枝葉の感触を娘の身体として愛で、彼女の父が幻覚とおしゃべりして感涙にむせぶクライマックスからも見てとれる。家族は家庭内で同型の疾患を反復する。

 要するに、劇団員たちが彼女を洗脳したのではなく、彼女自身に、そのようなカルト的なものに充たされたいという、欲望があったのである。

小劇場界隈の自己欺瞞か、界隈へのアイロニーなのか

 劇団員たちはただ単にちょっと鈍感で軽薄で、楽しく演劇をやりたかっただけで、劇団員達に罪はなく、彼女自身にカルト化への素質があっただけであるというのが本作の主旨だ。

いかにしてこの形式が成立したのかに関しては、仮説がある。

  • 責任を回避するための演劇界隈の自己欺瞞(ただ新人がメンヘラだっただけで、俺たちは悪くない!)
  • 演劇界隈への皮肉(俺たちはカルトにならず社会常識の範囲内で楽しく演劇をやるんだ! という、作家の決意表明)

どちらの仮説が正しいかは、本作だけでは判断を下すことができず、どちらでもあり得るだろうという風に言うことにとどめておこう。

シリアスな笑い

 この劇には、なんと30分という短い間に数々の見過ごしがたい小ネタが、挟み込まれている。それも、純粋な笑いというよりも、非常にアイロニカルなものが多い。いくつか例をあげよう。

  • あたかも万能の神のように、透徹した眼差しで、役者の身体も内面も奥底まですべて見透かし把握しているかのように振る舞ってしまわざるをえない演出家という役職と、でも実際はちゃんと見てなかったり言ってることいい加減だったりするよねと思ってしまう役者の思いとの、対比。
  • 「だめだめ、全然駄目!」「木の気持ちに!」など情熱をもって語るが、具体的に詳細に説明を求められるととたんに説明ができなくなってしどろもどろになり、自己の感覚を源泉とした肯定と否定でしか舞台を運営できない、言語能力のない演出家という哀しい性。
  • 舞台終了後のテンションで皆で包容し合っているところで演出家が、一方で主演男女に対しては演技を褒めちぎるが、他方で脇役男性に対しては巧妙に「良かったよ」という言葉を避けてただ感謝やよろこびの分かち合いの言葉だけに始終しようと頑張ってなんとか雰囲気を壊さずやり過ごそうとする哀しい努力。
  • 終幕後、関係者に「芝居、どうでしたか?」と聞かれた両親が、「興味深かったです」という一言を絞り出すまでの間にあく、本音と礼儀の間で揺れる内的な逡巡の間。これはすべての人が一度は経験したことのあるだろう現象であるだろう。開き直るか、儀礼に徹するか、先輩風を吹かして饒舌になるか、「自分の理解力が悪いせいかもしれませんが...」という条件を付帯して始めたり、様々なパターンが考えられるが、いずれにせよ、帰り道にもんもんとした時間を過ごすことは間違いなく、どう答えたとしても逃げ道はない。
     そしてまた、両親の回答の「興味深かったです」という言葉のこの言語センス!
    「面白かった」と同じ interesting の訳語にも関わらず長大な隔たりのあるこの言葉「興味深かった」は、受けとり側の関係者にとっては、自身の都合に解釈を合わせやすく、安心したものとして受け取ってよいだろうと最初は思い込むけど、やはり、あえてその語彙を選択した理由が気になって、もんもんとしたカンパケ後の時間を迎えるに違いない。
  • 稽古期間中に演出家に対して抱いていた男性役者の憎悪も、終幕後にはなぜか消え去って、涙を流して感謝を述べてしまう魔術的現象。
総評

 社会学者の北田暁大は、「反省」をキーワードに戦後日本史を振り返る名著『嗤う日本の「ナショナリズム」』において、次のような指摘を行った。1970年代前後の新左翼は、際限なき無尽蔵の自己反省装置としての「内面」を発見し、これこそが連合赤軍の「総括」地獄を帰結したのだ、と。

 演劇界隈に蔓延る「木そのものになれ」という格律は、「そうじゃない! そうじゃないんだ!」という、演出家の非言語的・否定神学的な眼差しとあいまって、役者を際限なき自己反省、自己呵責の無限ループへ追いやり、人間性を奪う。森林で悦びにむせぶ少女の姿は、狂気以外のなにものでもない(だからその直後、ホラー的な音楽が流れる)。

 そうして役者は「モノ」になる。木そのものになる。あるいは「役そのものになれ」とは「モノになること」である。それは連合赤軍の「総括」であり、現代のカルトとしての演劇集団の末路であり、お父さんとお母さんを悲しませることだろう。

 したがってアマチュア劇団をやる人々は、その危険性を強く頭に刻み、また、演劇ばかりやっていないできちんと社会の中で労働者として生活することにより、自らの周波数を社会と合わせることを怠らず、きちんと給与所得者になって、落ち着いた大人になるべきだ。

 本作『ふぉれすとらしからぬふぉれすとだ』は、演劇に関わるすべての人に対しての警句をシリアスな笑いで包んだ、傑作ホラー短編コメディである。

参考文献

ガラスの仮面美内すずえ

 少年少女をカルトに導く宗教書:

ガラスの仮面 49 (花とゆめCOMICS)

ガラスの仮面 49 (花とゆめCOMICS)

 
『嗤う日本の「ナショナリズム」』北田暁大

 戦後日本史を「反省」の見地からひも解いた歴史書で、小劇団によるスタニスラフスキー原理主義の、際限なき「自己反省」ループの危険性を知るための参考書:

嗤う日本の「ナショナリズム」 (NHKブックス)

嗤う日本の「ナショナリズム」 (NHKブックス)

 
『演技と演出のレッスン』鴻上尚史

 新劇におけるスタニスラフスキーを、健全な形で継承しようとする、役者の健全な教科書:

演技と演出のレッスン ─ 魅力的な俳優になるために

演技と演出のレッスン ─ 魅力的な俳優になるために

 
『演技と演出』平田オリザ

 スタニスラフスキー原理主義をカルトと喝破し、行動と物理的な次元での演技指導、翻訳作業による演出を説く、平田オリザの演技論: 

演技と演出 (講談社現代新書)

演技と演出 (講談社現代新書)

 
 『魂の演技レッスン22』ステラ・アドラー

 前期スタニスラフスキーの内面原理主義を継承しつつも、行動原理でなんとか狂気に陥らずにすんでいる人の本: 

魂の演技レッスン22 〜輝く俳優になりなさい!

魂の演技レッスン22 〜輝く俳優になりなさい!

 

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