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ローカルウォッチ(麦)

地域を観察した記録です

神的スマイルを待ち続けてたらそのうち死ねる|『ねむり姫』 ニットキャップシアター 第37回公演 (原作:澁澤龍彦)

演劇

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ニットキャップシアター 第37回公演
『ねむり姫』(原作:澁澤龍彦

あらすじ

 盗賊である小僧が警察に追われ、お堂の中に隠れたところ、そこには小さな女の子がおり、小僧は彼女と会話する。彼女はその屋敷のお姫様であったが、警察は中に姫のいることを知らず煙を焚いて小僧を炙り出そうとし、そのせいで姫は意識を失って、ねむり続ける「ねむり姫」となった。ねむり姫をめぐり、その婚約者や家人があたふたし、小僧もねむり姫を忘れられず、ねむり姫を追いかける。みな、ねむり姫の覚醒を待ち続けるが、ねむり姫は眠ったままで、人々は嘆きながら、踊り続ける。あるとき小僧は、自分がねむり姫の夢の中の存在であると悟る。それから80年の時を経てねむり姫と再会し、水の中で溶け合う。

解説

ねむり姫を待ちながら

ゴドーを待ちながら」は、やってこないゴドーを待ちながらただひたすら会話するだけであるところの我々の生を、戯画的に描いた作品だ。また、「桐島、部活やめるってよ」は、桐島がやってこないことに苛立ち、自らの存在意義をかけて桐島を追いかけるリア充たちと、桐島がいなくても楽しくやっていけるオタク達との対比を通し、我々に、神なき時代の生き方を示した作品である。

 いずれの作品も、神的な存在であるゴドー(=God)ないし桐島(きりしま=キリスト)が、舞台上に決して現れないことによって当の物語が駆動する、否定神学的な構造をもった物語である。

 本作「ねむり姫」も同型的で、ねむり姫が覚醒しないことによって、人々の欲望や目的が触発・発見され、会話が交わされ、踊られ、うたわれる。

一貫した人生の不可能性

 大きな物語が失われて、神なき時代、父なきリトルピープルの時代を生きる我々は、いかにして己の生を意味付け、何を目的として己の生を駆動すればいいのかよくわからなくなっている。「桐島部活やめるってよ」では、超越的な彼岸の神を追いかけるのではなく、此岸的な神が己に内在し、それを知らされる瞬間があるということが説かれた。では本作「ねむり姫」は何を説くのか。何をもって我々は一貫した生を生きればいいのか。

ちょくちょく笑う神

 「ゴドーを待ちながら」では神は一度も現れない。「桐島、部活やめるってよ」では、映画部員が神を感じたことを後から会話を通して知らされるが、姿は現さない。

 本作では、神はちょくちょく姿をあらわす。正確に言えば、フィクショナルなシーンをのぞき一度も覚醒せず、眠り続けたままなのであるが、ちょくちょく笑うことによってその姿を我々に知らしめる。その様は、赤子がねむったまま刹那にこぼす笑み、いわゆる新生児微笑、以外のなにものでもない。我々はねむり姫の微笑を通して、神的な瞬間が現世に内在することを知るのである。

踊ったり歌ったり話したりする根拠

 我々が王にひざまずくのは、彼が何か特別に優れた存在であるからではない。我々がひざまずくからこそ、彼は王なのである。貨幣の根拠についてマルクスはそう言ったが、貨幣が貨幣であることの根拠と、ねむり姫が神的であることの根拠は、同型的である。ねむり姫は別に神的な存在ではない。ただの人間である。ねむったまま歳をとらないと言われるが、それは人々がそう言うからそうであるに過ぎない。

 したがってねむり姫をねむり姫にするのは、我々が、ねむり姫に向けて歌ったり、踊ったりするそれら行為によってである。それは我々が赤子に対するのと同様である。赤子の神聖性は、我々によってこそ、そこに宿るのである。

我々は夢のなか

 登場人物の一人が、ある時、我々の人生は所詮仏様の夢だ、と述べた。そのことが現実であるかのように、盗賊の小僧は、ある時、自分がねむり姫の見る夢の中にあらわれたフィクショナルな存在であることを、知る。そうして小僧は、その後の80年、一所懸命に生きるのだが、最後には水の渦の中に自らの身を投げ出し、死ぬ。作中では、ねむり姫との再会を果たすという形式をとるのだが、これは単なる老衰死である。単なる老衰死であることが、ねむり姫との再会であり、夢からの解脱を意味するのである。

ねむり姫とは誰か

 小僧がかつてただの一度会話したに過ぎない当のねむり姫は、結局一度も覚醒しない。しかし常に小僧のもとにあった。小僧にとって自らがねむり姫の下位概念に過ぎないと思わしめる程度に、小僧の生は、ねむり姫のもとに/とともにあった。

 さて我々は、小僧にとってのねむり姫のような存在を、己の生に定礎することが、いったい可能であろうか?

 現代に生きる我々にとってそれは、非常に難しいと言わざるを得ない。昔は自明であった然々の物語も、今は成立させることが困難であるということが、現代社会の特徴だからである。仏職の子に生まれた者なら、たとえば特に志望大学を定めないまま、過酷な受験勉強の日々を、徳を積むこととしてドリブンすることができるかもしれない。けれど我々に仏様はいるのか、どうもここが怪しい。無難に言えば、先に死んでいった人や、赤子の成長が、我々にとってのねむり姫となるのかもしれない。

 ただ他方で、我々にとってのねむり姫を探すこと、それ自体を、舞台上でねむり姫を探し・待ち続けた人々と重ね合わせることで、我々は我々の生をやり過ごすことができるかもしれない。

 ねむり姫がどんな人なのか、ちゃんと喋ったことがないので、実際には分からないけど、そのうち我々も死に、その時にはじめて、夢から覚めて、直面することができるだろう。その時のことを楽しみにしながら、適当に修行したり、意味のない会話をしながら、生きていけばよいのではないだろうか。

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参考文献

ねむり姫―澁澤龍彦コレクション 河出文庫

ねむり姫―澁澤龍彦コレクション 河出文庫

 
ゴドーを待ちながら (白水Uブックス)

ゴドーを待ちながら (白水Uブックス)

 
桐島、部活やめるってよ (集英社文庫)

桐島、部活やめるってよ (集英社文庫)